上海『申報』は「台島警信」と題して、日本が釣魚諸島の占拠を図っていることを「台灣北東部の島で、最近日本人が日本の旗をその上に掲げ、島を乗っ取らんばかりの勢い」と暴露。
沖縄県五等屬の石沢兵吾は県令西村捨三に対し、久米赤島は即ち『中山伝信録』の中に記されている赤尾嶼で、久場島は即ち黃尾嶼で、魚釣島は即ち釣魚島であることを報告。
沖縄県令西村捨三は、內務卿山県有朋に上申し、當該島嶼は「既二清國モ舊」中山王ヲ冊封スル使船ノ詳悉セルナミナラズ、夫々名稱ヲモ付シ、琉球航海ノ目標ト為セシ辭事明カナリ」と認識しており、內務省の密令は「踏査直二國標取建候モ如何ト懸念仕候」とした。
『京報』が掲載した二つの詔では、総理海軍事務衙門設立及び福建巡撫を台灣巡撫に改める(即ち台灣府を省に昇格する)ことを決定。この事は日本の駐清臨時公使島田胤則と駐天津領事波多野承五郎より直ちに外務省に密報。
外務卿井上馨は山県有朋に密かに返信し、新聞に載っていた「「台灣」東北辺之海島」は「台灣近傍清國所屬島嶼」であるとし、「清國ニハ其の島名モ付シ」、「近時、清國新聞紙等ニモ、我政府に於テ台灣近傍清國所屬ノ島嶼」ヲ占拠セシ等、風説ヲ掲載シ、我國二対シテ猜疑ヲ抱キ、頻二清國政府ノ注意ヲ促シ候モノモ有之候」と敘述。國標建設を延期するものの、密かに踏査を行うが、「官報並ニ新聞紙ニ掲載不相承候」と主張し、この事は、「他日ノ機會二讓候方、可然候存」と敘述。
沖縄県は再び山県有朋に指示を請う。
內務卿と外務卿は連名で沖縄県令に「書麵伺之趣、目下建設ヲ搖』ザル儀ト可心得事」と指示。
中國紀元 西歴 歴史事項
清光緒 十二年 1886年 沖縄県令西村捨三の『南島記事外編』及びそこに付せられている『琉球三十六島之図』では、釣魚諸島の島々は一つもなく、即ち、西村捨三は釣魚諸島が沖縄領ではないことを十分承知。
十五年十二月二十二日 1890年1月13日 沖縄県は再度國標建設の指示を請う。
十九年九月二十四日 1893年11月2日 沖縄県知事は三回目に管轄標杭建設の指示を請う。
清光緒二十年 二十年 1894年 古賀辰四郎より提出された9年前の釣魚島租借の申請は、沖縄県より卻下処置。
七月一日 1894年8月1日 日本の朝鮮駐留軍は中國軍を突然襲撃し、清朝政府は日本に対する宣戦を迫られる。
八月十六日 9月15日 清陸軍は平壤で敗北。日本軍はまもなく鴨緑江を渡江し、九連城と鳳凰城などの地を陥落。
八月十八日 9月17日 黃海大戦北洋海軍は甚大な被害を被る。日本陸軍の一部は海路を経て、金州、大連、旅順等を陥落。
十月 11月 11月初め、敗北が既に明白になったことを考慮し、李鴻章は奏上により天津海関稅務司デットリングを日本に派遣し和議を望もうとしたが、日本側が拒否。
十二月一日 12月27日 日清戦爭の大局が既に決し、日本側の勝利が確実であることを見て、日本內務大臣野村靖は、遂に外務大臣陸奧宗光に書簡を送り、「今や昔とは情勢が異なる」と述べ、釣魚島に國の標識を立て、版図に組み入れることについて、閣議で審議で決議することを提案。
十二月十六日 1895年1月 11日 外務大臣陸奧宗光、野村の釣魚諸島占拠計畫の実施に同意。
十二月十九日 1月 14日 日本內閣で、決議が可決。
中國紀元 西歴 歴史事項
清光緒 二十一年 二月 1895年3月 日本軍、牛荘を陥落。
三月 4月 日本軍、澎湖を陥落。
三月二十三日 4月17日 「馬関(下関)條約」調印。
四月十七日 5月8日 中日両國は北京において、批準文書を交換。台灣民衆が台灣割譲に反対し、蜂起。
四月十九日 5月11日 明治天皇は有地品之允を征台(後に[常備]と改稱)艦隊司令官に任命し、台灣総督樺山資紀のもとで勤務。
五月六日 5月29日 「午前九時、樺山資紀総督先二尖閣島(実は花瓶嶼)ノ南方約五海裏ノ処に至ル」。正確な位置は北緯 25°20′、東経122°。
五月十日 6月2日 21時、「台灣引渡事務は完全に終結」。
五月十八日 6月10日 古賀辰四郎は、「馬関(下関)條約」発効の機に乗じて、「この度は果斷にこの島(釣魚島を指す)を日本所有にするべきである」と述べ、釣魚島の「租借」を申請し、翌年の九月政府からの認可を取得。