四十年 1701年 琉球より派遣された蔡鐸の進呈した『中山世譜』及び地図に添付された説明では、「三十六島」の名稱を詳しく列挙していたにもかかわらず、釣魚諸島はその中にはなかった。
五十八年 1719年 冊封副使。徐葆光は、琉球王府から提供された公文書及び地図を基に、琉球側と共に研鑽した後、『中山伝信録』を完成。そこでは「八重山 ――此琉球極西南屬界也」、「姑米山 ――琉球西南方界上鎮山」と明示。『琉球三十六図』では、古米山の西の中國領を果てしない海として描かれていた。「海」は中國古代において境界線を描く伝統的な方法である。
六十一年 1722年 巡視台灣禦史黃叔璥の『台海使槎録』巻二「武備」では、台灣府水師船艇の巡邏航路と沿海歩哨所を列挙、「山後大洋北、有山名釣魚台、可泊大船十餘」と強調、指摘。
清乾隆 十二年 1747年 範鹹等作の『重修台灣府誌』及び乾隆二十九年(1764)餘文儀等の『続修台灣府誌』では、共に「前誌、草創、多失之略」と指摘の上、特に「前誌は海防事情を載せずして、今特別に記入す」と強調し、同時に巻二「規製。海防。附考」で、黃叔璥の上述釣魚台に関する記載を全文転載。
中國紀元
二十二年
清乾
三十二年隆
五十年
五年
清嘉十三年慶二年清
同治十年
清五年
光緒
清
六年光
九月緒
西歴
1757年
1767年
1785年
1800年
1808年
1863年
1871年
1879年
1880年10月
歴史事項
冊封副使周煌の『琉球國誌略』では「(琉球)環島皆海也、西距黒水溝與閩海界」と記載。獻上された『琉球國全図』では姑米山を境とし、その西の赤尾嶼。黃尾嶼は一切編入されなかった。
乾隆帝の勅命を受けたフランスの宣教師蔣友仁(Michel Benoist)により製作された『坤輿全図』では、好魚須即ち釣魚嶼と、懽(歓)未須即ち黃尾嶼と、車未須即ち赤尾嶼の著色が中國本土。台灣の赤黃色と全く同じであり、琉球本土及び三十六島は逆に深い緑色で著色。
日本天明五年、仙台の林子平により製作された『三國通覧図説』「琉球三省並三十六島之図」では、釣魚台、黃尾山、赤尾山を中國本土と同じ色で著色。
冊封使趙文楷の『槎上存稿』では、「十一日見古米山(近琉球矣)」と記載。
冊封使斉鯤は、「(黒水)溝」の所在位置を、「[潤五月十三日]午刻見赤嶼、又行船四更五、過溝祭海」と的確に記載。同時に『航海八詠』の題の下に「此山入琉球界」と注記。
湖北巡撫官修の『皇朝中外一統輿図』は、康熙及び乾隆年間の內務府皇室輿図を基に製作され、図中の釣魚嶼、黃尾嶼、赤尾山の名稱標識法は中國本土と一致。
道光年間に編纂された『重纂福建通誌』八十六巻では、釣魚台を海防の要衝として列記し、台灣府葛瑪蘭庁(今台灣省宜蘭県)の管轄下に編入。
この年、日本が琉球藩を廃し沖縄県とする直前、琉球の紫金大夫向徳宏は、中國に「弊國に兵を派遣し、日本の侵入を防禦する。前の明の洪武七年間(1374)臣の呉禎に命じて沿海の兵を率いて琉球防衛へ至らしめる舊事のごとき、日本に覬覦の念を絶たしめる。」と請願した。更に、日本外務卿の寺島に送った書簡の中で、琉球は三十六島であるとして、久米島 ‐福州間に「連綿と」ある島嶼は中國所有のものであることを再度明言。
日本の駐清公使宍戸璣が中國総理各國事務衙門に対して出した「琉球分島」案では、「大日本國將琉球南部宮古、八重山両島、屬之大清國管轄、以清両國境界」と主張し、當時中國――琉球間にはもともと「無主地」が存在しなかったことを証明。
中國紀元
十一年
七月二十八日
八月十三日
清
八月十四日
光緒 十一年九月六日
九月十四日
九月二十九日
十月二十八日
西歴
1885年
9月6日
9月21日
9月22日
10月13日
10月21日
11月5日
12月4日
歴史事項
日本人古賀辰四郎は中國側許可を経ずに、無斷で釣魚島に立ち入り、鳥の羽及び海産物を採集すると同時に、沖縄県に対し釣魚島の「租借」を申請する。同年、日本內務省は沖縄県大書記官森長義に対し、密令を発し、陰で釣魚諸島を踏査させ、同時に國標建設を計畫する。