西夏の主要民族であるタングートは、建國以前より仏教を崇拝し、その領域には當時の仏教隆盛を彷彿とさせる遺跡·遺物を數多く殘している。それらの仏教遺跡·遺物を研究対象として多くの成果があげられているが、いまだ西夏仏教の変遷や各遺跡間の関係を明確にとらえるにはいたっていない。黒水城は、その出土文獻の內容から、大規模な仏教センターの役割を擔っていたことは想像するにたやすい。しかし、なぜ彼の地が一大仏教センターとなったのか、さらには、他の仏教寺院や石窟との関係はどのようなものであったかという問題は、充分に議論されていない。そこで本稿では、黒水城出土仏典観彌勒菩薩上生兜率天経と敦煌石窟に注目し、彌勒信仰を通じて、西夏仏教における各地域の特徴と共通性についての考察を試みる。

考察を進めるにあたり、彌勒信仰について、先行研究(1)をもとに整理しておきたい。

彌勒信仰には、下生信仰と上生信仰の二種がある。下生信仰は彌勒大成仏経(2)や彌勒下生経(3)に、上生信仰は観彌勒菩薩上生兜率天経(4)に、それぞれ基づいており、総稱して彌勒三部経という。その成立は、下生信仰を説く仏典が先である。

彌勒が常に説法をしている、兜率天へ往生せんと願うのが、上生信仰である。符秦の道安(314~385)は、弟子とともに毎に彌勒の前において誓いを立て、兜率天に生れんことを願って(5)いたという。中國では、道安のころにはすでに、彌勒上生信仰が僧たちの間に崇信されていたといえる。

下生信仰は、未來仏としての彌勒が、兜率天からこの世に下生し、一切の人々を救済することにたいする信仰である。この下生信仰が、彌勒信仰としては本來の形である。中國においては、唐代以降、下生信仰に基づいた民衆蜂起、いわゆる彌勒教匪があらわれる。時に権力者は、下生信仰を利用して、自らを彌勒の化身とし、その権威を堅固なものとしていった。則天武後(位690—705)の武周革命が、その最たる例であろう。舊唐書巻183、列伝133、外戚、薛懐義伝には懐義與法明等造大雲経、陳符命、言則天是彌勒下生、作閻浮提主、唐氏合微。とある(6)。このように、彌勒下生信仰の一側麵として、為政者と結びついたとき、その支配力を強化するために用いられることがあった。これは、隋·唐以降の彌勒信仰が、民間信仰として展開していったことと深く関わる。つまり、民間に深く根付いた彌勒信仰であるからこそ、為政者の支配力を強めることができたといえよう。

彌勒信仰について論ぜられるとき、必ずといっていいほど、阿彌陀信仰との関連が取りあげられる。その前後関係は、彌勒信仰が先におこり、後に阿彌陀信仰主流へと移り変わるのが一般的である。中國も例外ではなく、石窟寺院での造像において、彌勒より阿彌陀へとの変遷が、端的にそれを示している。これは、敦煌においても同様であった。

唐末五代の僧契此(—916)は、布袋和尚という名のほうが有名であるが、その名は彌勒の化身として、契此の死後に広まった。宋代には、布袋和尚像を供養することが流行し始め、後にそれは、彌勒像の代表的な形象の一つとなっていく。

彌勒信仰は、その信仰された地域と時代が、非常に広大であることが、大きな特徴である。ゆえに、彌勒信仰を用いた研究は、非常に大きな視點を得ることとなる。その大きな視點をもって、西夏仏教の一側麵を考察し、その特徴を究明することが本稿のねらいである。

1.黒水城出土仏典観彌勒菩薩上生兜率天経の背景

黒水城出土仏典観彌勒菩薩兜率天上生経(以下“上生経と略す)は、俄蔵黒水城文獻(7)中に確認できるだけで、8點存在する。そのうちТК58·ТК81·ТК82·ТК83(8)の4點は、経首から経尾までそろった完品である。漢文刊本で、1行18字、1葉は6行からなる。経首の扉畫には、精巧なチベット仏教様式の版畫が印刷される。ここから、西夏における上生経の刊行とチベット仏教に、何らかの関係があったことを推測できよう。仏典本文が終わったのち、慈氏真言·生內院真言と続き、最後に施経発願文がある。ТК60(9)は、経首の扉畫が欠け、一部破損がある。ТК86(10)は、2葉の斷片のみで、1番上の字の半分から上が欠損している。ТК87(11)は、1葉の斷片で、下半分の8字分しか殘っていない。以上の7點は、同一の版木から印刷されたものと考えて間違いあるまい。

これら漢文刊本とは別に、ロシア蔵西夏語刊本上生経が、10點存在するようである(12)。そのうち、Инв。No78の扉畫のみが、俄黒文にて確認できる(13)。Инв。No78は、その経首の扉畫が、漢文刊本と全く同じである。ただ、短冊形に書かれる文字は、西夏文字となっており、仏典本文との文字の統一がなされている。この西夏文刊本の存在は、漢文刊本の経尾の発願文にみられる、番(14)·漢の観彌勒菩薩上生兜率天経一十萬巻を散施するという一文を肯定していよう。

上生経は、漢訳では劉宋の沮渠京聲の訳本のみが現存している。大正新脩大蔵経では、巻14に収録(15)。出三蔵記集等によると、沮渠京聲は、高昌郡(新疆·吐魯番)で観世音·彌勒の二観経各一巻を得ている(16)。チベット語本も、漢訳からの重訳である。もちろん、黒水城出土上生経も、漢文刊本は沮渠京聲の訳である。

ここで、上生経の西夏語訳が、いつごろ誰の手によってなされたのかを、明らかにしておきたい。西夏語刊本には、その表題に西夏文字で彌勒菩薩足知天上生観経(17)とある。これに続いて、少し小さめの字體で3人の皇帝·皇太後の名が記される。1行目は、天生院能、番祿聖祐、國正皇太後梁氏賢訳とある。2行目は、徳成國主、福盛正民、明大皇帝嵬名賢訳とある。3行目は、天奉道顕、武耀文宣、神謀睿智、義製邪去、惇睦懿恭皇帝察定とあり、その次行より仏典本文が始まる。天奉道顕、武耀文宣、神謀睿智、義製邪去、惇睦懿恭皇帝とは、漢字で表記される場合、奉天顕道、耀武宣文、神謀睿智、製義去邪、惇睦懿恭皇帝となり、仁孝(廟號·仁宗、位1139—1193)のことを示す。これは、漢文刊本上生経の発願文に、乾祐二十年(1189)という、仁孝の年號が使われていることから明らかである(18)。

では、最初の二人、國正皇太後梁氏と明大皇帝嵬名とは、誰を指すのであろうか。嵬名とは、西夏皇族の姓であり、特定の皇帝を示すものではない(19)。皇太後梁氏は、西夏史において二人存在した。一人目は、秉常(廟號·恵宗、位1068—1086)の母である恭粛章憲皇太後梁氏(以下“恭粛梁氏”と略す)で、もう一人は、乾順(廟號·崇宗、位1086—1139)の母である昭簡文穆皇太後梁氏(以下“昭簡梁氏”と略す)である。史金波氏の考察によれば、國正皇太後は恭粛梁氏であり、明大皇帝は秉常となる(20)。

つまり、西夏語刊本上生経は、恭粛梁氏と秉常皇帝のもとで西夏語訳され、仁孝期に校訂を受け、刊行されたのである。皇帝·皇太後の名のもとでの翻訳作業は、いわば國家事業として、仏典が翻訳されていたと考えられよう。上生経が、秉常期に西夏語訳されていたことは、西夏におけるこの仏典の重要性を示していよう。さらに注目すべきは、西夏前期より、彌勒上生信仰が西夏皇室の中にあったことである。

仁孝期には、數多くの仏典が刊行されており、この上生経もその一つであった。仁孝時代の西夏は、國境を接する金と友好政策を執ったため、概して平和な時代が続く。そのため、國力は充実し、西夏文化の隆盛を迎えた。上生経が刊行された乾祐二十年(1189)は、仁孝治世末期にあたり、権臣任得敬が誅せられた後で(21)、最も豊かな時代であった。

仁孝は、仏典の刊行と同時に、大規模な仏教行事を行っている。乾祐十五年(1184)には、仏説聖大乗三帰依経を刊行している。その発願文には、印造斯経番漢五萬一千餘巻、彩畫功徳大小五萬一千餘幀、數珠不等五萬一千餘串、普施臣吏僧民、毎日誦持供養、所獲福善、伏願、皇基永固寶運彌昌。(22)とある。西夏文と漢文で仏説聖大乗三帰依経五萬一千餘巻が印造され、それと同數の仏畫および數珠を製作し、ともに官吏·僧、さらには民間にまで施されている。仁孝の崇仏がどれほどのものか伺いしれよう。さらに皇基永固、寶運彌昌。とあるように、仏教をして國家の永続を願っている。仁孝期における仏教の一側麵として、鎮護國家としての役割があったことを示していよう。これと同様式の発願文が、聖大乗勝意菩薩経(23)にもあることから、幾つかの仏典が同じように刊行され、西夏國民に施されていたと考えられる。また、仏説金輪仏頂大威徳熾盛光如來陀羅尼経の発願文には、乾祐甲辰十五年八月初一日重開板印施(24)とある。乾祐十五年(1184)に刊行された仏典が、數多く存在することを示唆していよう。

2.上生経発願文前半と扉畫

上生経が刊行されたのは、先述の仏説聖大乗三帰依経刊行より5年後のことであった。上生経発願文は、前·後半に區分できる。前半部分は、上生経に説かれる內容の要約で、後半部分は、その時に行われた、彌勒広大法會の様子を伝えている。その全文を以下に記す。本文は1行18字である。改行個所には/を挿入し、欠字部分は空白とした。