図「新京市街地図」(1941年)1982年復刻、謙光社資料部
注:新京動植物の地図に象(4)が表記されているが、計畫図麵ということである。
「新京動植物園」の歴史的な意味、すなわち「満洲國」建設における「新京動植物園」の役割を明瞭化する必要がある。近代日本における動物園の発展過程について研究した若生謙二は、「新京動植物園」については次のように述べている。
つまりこの動物園は、植民地支配を補強するために、住民の國家帰屬意識を
醸成する施設として、満州國住民の日本への同化政策の一端を擔うものとして
設けられたのである。新京動植物園は、一麵では入植者への誘致施設としての
役割を擔いつつも、基本的には植民地支配に伴う文化的支配を目的として建設
されたものであった。
若生謙二「近代日本における動物園の発展過程に関する研究」「造園雑」46(1)、1982年、p.8。
日本の資本主義済は、恐慌と不況をて行きづまり、植民地支配の強化と
軍國主義化によって、その打開をはかろうとしてきた。動物園史におけるこの
時代の特徴は、侵略政策との関係に顕著にあらわれている。1932年、関東軍が
傀儡政権として建國した「満洲國」に、1938年、新京動植物園が開設された。
「満洲國」は日本にとって、市場獲得と大陸支配の基地としての意義をもって
いたが、その首都に設けられた動物園建設の目的は、「新京動植物園の建設計畫」
によれば、次の通りである。「従來軍閥政治に虐げられ、教育の程度低く國家の
何たるかも知らず、ひたすら為政者の搾取から遁れんとする自主的観念に培れ
來った満州國住民に対し、動植物園の如き一般的な軟か味ある文化施設を設け
て社會知識の開発に努め、…、不言不語の裡に國民の歓心を國都に集中せしめ
従って國家観念を滴養せしめん」
中俁充誌「新京動植物園の建設計畫」「博物館研究」第13巻第2號、日本博物館協會、1940年、p.4。
ことが第1としてあげられていた。つまり
この動物園は、植民地支配を補強するために、住民の國家帰屬意識を醸成する
施設として、満州國住民の日本への同化政策の一端を擔うものとして設けられ
たのである。新京動植物園は、一麵では入植者への誘致施設としての役割を擔
いつつも、基本的には植民地支配に伴う文化的支配を目的として建設されたも
のであった。
前掲論文「近代日本における動物園の発展過程に関する研究」、p.8。
したがって、「満洲國」崩壊寸前という時代背景の設定から見ると、この「新京の動物園」に起こったフィクションの「動物園襲撃」は、一つの時代の暴力が段階的に焉を迎えたことを意味するものであろう。「新京動植物園」が物語の舞台になるのは、文學表現の便利さから選ばれたというだけでなく、植民地社會における「新京動植物園」の意味を重要視したものであろう。このように、ノモンハンと「新京の動物園」にクローズアップされた暴力は、現代社會の代表的な悪人とされる綿穀ノボルによる暴力と輪を成している。
5. 「満洲」から引揚げの記憶——歴史の実像に關して
第3部第10章「動物園襲撃(あるいは要領の悪い虐殺)」の冒頭は「満洲」からの引揚げ船で始まる。筋に不在の語り手がナツメグの代わりにアメリカ潛水艦と遭遇した光景を語ってくれる。そして、引揚げの光景からモンタージュのように視が切り替えられて、幼いナツメグが見なかったはずの動物園での動物射殺に向けられる。
ナツメグはそのとき佐世保に向かう運送船の甲板に立っていたし、そこで実
際に目にしていたのはアメリカ海軍の潛水艦だ。
彼女が蒸し風呂のような船倉を逃れて甲板に立ち、ほかの多くの人々と一緒
に手すりにもたれて、微かな風を受けながら波ひとつない穏やかな海麵を眺め
ているときに、その潛水艦は何の前觸れもなく予兆もなく、まるで夢の一部の
ように出し抜けに海上に浮かび上がってきた。まずアンテナとレーダーと潛望
鏡が海麵に姿を見せ、次に司令塔が波を立てて水を分かち、やがて濡れた鉄の
塊が夏の光の下にすらりとした裸身を曝した。潛水艦という限定された體裁を
とっていたものの、それはむしろ何かの象徴的なしるしのように見えた。ある
いは意味のわからないたとえのように。
潛水艦は獲物の子をうかがうように、しばらく運送船と並行して進んだ。
やがて甲板のハッチが開き、乗組員たちが一人また一人と、どちらかといえば
緩慢な動作で甲板に姿を現した。誰もあわててはいない。上官たちは司令塔の
デッキから、大きな雙眼鏡で輸送船の子を観察していた。時折そのレンズが
きらりと太陽に光った。輸送船は本土に向かう民間人を満載していた。その大
半は女性と子供たち、目前に迫った敗戰の混亂を避けるために故國に引き揚げ
ようとする満州國日係官吏や満鉄の高級職員の家族だ。洋上でアメリカの潛水
艦に攻撃されるかもしれないリスクも、中國大陸にとどまる悲慘さと比べれば
まだ承服できるものだった——少なくとも実際に
それが眼前に姿を現すまでは。
「村上春樹全作品1990—2000 ⑤ ねじまき鳥クロニクル2」講談社、pp.9293。
(中略)
満州國の崩壊は目の前に迫っていた。
誰もがそのことを承知していた。関東軍の參謀たち自身がいちばんよく承知
していた。だから彼らは主力部隊を後方に撤退させ、國境付近にいた守備部隊
や開拓農民たちを事実上見殺しにした。非武裝農民たちの多くは先を急ぐ——つ
まり捕虜を抱えている餘裕のない——ソ連軍の手で慘殺された。女性たちの大半
は暴行されるよりは集團自決の道を選んだり、あるいは選ばされることになっ
た。國境近くの守備隊は彼らが「永久要塞」と名付けたコンクリートの城にこ
もって激しく抗戰したが後方からの支援はなく、圧倒的な火力を受けてほとん
どの部隊がそこで全滅した。參謀や高級將校の多くは朝鮮との國境に近い通化
の新司令部に「移動」し、皇帝溥儀とその一族も大急ぎで荷物をまとめて、専
用列車で首都を脫出した。首都警備にあたっていた「満州國軍」の中國人兵士
たちの多くはソ連軍侵攻のニュースを聞くとすぐに兵営を脫出し、あるいは反
亂を起こして指揮をとっていた日本人將校を射殺した。當然のことながら、彼
らは日本のために命をかけて荒野の中に作り上げた満州國の首都、新京特別市
は不思議な政治的空白の中にとり殘されることになった。満州國の中國人高級
官僚たちは、無用な混亂と流血を避けるために、新京市を非武裝都市として無
血開城することを主張したが、関東軍はこれを退けた。
「村上春樹全作品1990—2000 ⑤ ねじまき鳥クロニクル2」講談社、pp.9596。(下線は馮英華)
「ねじまき鳥クロニクル」における歴史記述は、第1部のノモンハン(1938年)から、第3部では戰直前(1945年8月)の場に飛躍的に移り変わっている。「1Q84」において「満洲」引き揚げの記憶は要的に語られているが、ここの「満洲」引き揚げの記憶は、甲板の上の光景を通して象徴的に描かれている。実際の「満洲」引き揚げについて、歴史研究での実
證的な成果を參照する。「満洲國」政府が瓦解し、日本在満大使館·領事館の機能が停止したのち、在留日本人は各地に日本人居留地を作って相互扶助、避難民受入れに當たった。1945年9月1日にはその中央機関として長春に「東北地方日本人救済會」が設けられた。翌1946年引揚げ事業開始とともに本部が瀋陽に移され、「全東北日僑善後連処」と改稱されて引揚げ日本人の中心窓口となった。ソ連軍政下では全く取り上げられなかった日本人の送還問題がようやく動き出したのは、中國國民政府東北行営が瀋陽に入り、その下部機関である「日僑俘管理処」が活動を開始してからである。國民政府は山海関に近い葫蘆島を拠點とし、アメリカ軍の協力を得て引き揚げ事業を開始した。第1次遣送の先陣を切って、1946年5月7日、錦西·葫蘆島地區の2400餘名が引揚げ第1船に乗船することができた。ついでに5月9日、瀋陽において日管から日僑に対して全日本人を対象とする引揚命令が下され、作業は本格化することになった。処ではさしあたり瀋陽·開原·鉄嶺·撫順·本渓湖·海城·鞍山·遼陽(のち5月24日、四平·公主嶺·長春を追加)に集した日本人を対象として第1期遣送計畫を立てた。1946年5月から10月のこの第1期、いわゆる「100萬遣送」といわれる期間に、待機していた在留日本人の大部分が帰國することができた。なお、中共軍支配地からの日本人の南下は、1946年6月(第2次)國共停戰協定が成立したのち、アメリカ軍將校の斡旋·仲介によってはじめて可能になった。これにより、1946年8月から10月までの3ヶ月間に、236759人が移動を完了し、この第1期遣送に加わることができた。ソ連軍の占領がいた旅大地區の引揚げは最も遅れて1946年12月3日に始まり、翌47年3月31日までに22萬人が引き揚げた。第2次遣送は1948年7月の5千人、第3次遣送は1949年秋の3千人であった。これら3回の遣送により一般日本人215037名、陸海軍人10917名、合計225937名がこの地區から帰國した。しかし旅大地區にはなお1200名餘の技術者とその家族が留用され、殘留させられた。
山本有造編著「満洲——記憶と歴史」京都大學學術出版會、2007年3月、p.1819。
「ねじまき鳥クロニクル」におけるナツメグは、「満洲國」日係官吏や高級職員の家族として、5歳だったナツメグと母親は他の一般の日僑より一足先に引き揚げ船に乗せられ、果として無事に日本に帰國できて、幸運だったと言える。これは「1Q84」の父親の逃避行と少々重なる物語の設定である。明らかに、引き揚げの苦難は「動物園の話」の重點ではないが、一般の引き揚げ記憶を逸脫する、特例として捉えられているのである。
6. 動物処分と児童文學
動物銃殺はこの「動物園襲撃」の中心的な內容となる。歴史の実相についていえば、佐藤昌の論考によれば猛獣たちは「薬殺」された。猛獣たちを銃殺したという村上の小説の設定はフィクションと言える。この節では、「動物射殺」を分析するにあたって、戰後の児童文學における「動物園での動物殺し」の例を取り上げて検討する。村上の「動物園襲撃」との異同は興味深い。歴史的な出來事として、東京の上野動物園で熊、象、ライオンなど二十七頭の猛獣が殺された事件は、當時かなり大きく報道された。土家由岐雄の「かわいそうなぞう」を例として対照してみよう。この作品は1951年に童話集「愛の學校·二年生」(東洋書館)に発表された後、1970年8月、金の星社より「おはなしノンフィクション本」として出版された。あらすじは以下の通りである。第二次世界大戰後期、東京にある上野動物園では空襲で檻が壊れた際の猛獣逃
亡を防ぐため、動物たちが殺されることになった。ライオンや熊が殺され、殘すは象のジョン、トンキー、ワンリーだけとなった。象たちに毒の餌を與えたが、象たちは餌を吐き出してしまった。毒を注射しようにも、象の皮膚が固いため針が折れてうまくできなかった。それで、餌や水を與えず、餓死するのを待つことにした。象たちは可哀想に餌を希うが、ついに餓死するという果となる。「ねじまき鳥クロニクル」の「動物園襲撃」を児童文學の「かわいそうなぞう」と比べた場合、者層が異なることは言うまでもないが、語りの構造もより複雑だと言える。二つの物語が発生した背景は共通で、戰爭の後期に、戰火の下で動物たちが逃げ出したら危険ということで、東京都の指示により野獣たちを殺処分する戰時猛獣処分の命令が出されたというものである。ただし、「動物園襲撃」の舞台は外地である「満洲」に移されている。「新京の動物園」を験したのは當時子どもだったナツメグだったという設定から見れば、両方とも、子ども目を內包する語りとなっている。戰後において「記憶」の記述の仕方という観點で見る場合、「動物殺処分」をテーマにする両作品は重要な題材ではないか。「動物園襲撃」では、象以外の豹、狼、熊などの動物も次々と射殺されている。
彼らは豹を殺し、狼たちを殺し、熊を殺した。その巨大な二頭の熊を射殺す
るのに一番手間がかかった。熊たちは數十発の小銃弾を撃ち込まれながら、そ
れでもなお檻に激しく體當たりし、兵隊たちに向かって歯をむき出し、唾を散
らして咆哮した。熊たち、どちらかといえばあきらめのいい(少なくともは目
にはそう見える)貓科の動物たちとは違って、自分たちが今こうして殺されつ
つあるという事実が、どうしてもうまく得できないようだった。おそらくそ
のせいで、彼らが生命という名で呼ばれている暫定的な狀況に最的に別れを
告げるまでに、必要以上に長い時間がかかった。
「村上春樹全作品1990—2000 ⑤ ねじまき鳥クロニクル2」講談社、p.106。
「ねじまき鳥クロニクル」においては、象はあまりにも大きくて、処分する
のは不便なので、局殺さなかったことになっている。動物を射殺する光景は
血みどろで、野獣たちが懸命にもがく姿はリアルに表現されている。「射殺」の
殘忍さのインパクトがあり、明らかに子ども向けに書かれたものではない。戰
時下における虐殺を象徴的に表現する場麵だと言える。次に「かわいそうなぞ
う」の具體的な描寫をみよう。
まい日、えさをやらない日がつづきました。トンキーとワンリーも、だんだ
んやせほそっていきました。ときどきみまわりにいく人をみると、よたよたと
たちあがって「えさをください。」「えさをください。」と、ちがらないこえでせ
がむのでした。
土屋由岐雄「かわいそうなぞう」「愛の學校二年生」日本児童文學者協會、岩崎書店、1962年、p.131。
〈中略〉
ついにワンリーは十いく日めに、ドンキーは二十いく日めに、どちらも、て
つのおりにもたれながら、はなをたかくさしあげてばんざいのげいとうをした
まま、しんでしまいました。
同書、pp.135136。(下は馮英華)
ワンリーとドンキーがえさをこいねがって、ついに餓死したプロセスの哀れが強調され、者(子ども)の同情を引き起こそうとしている描寫である。動物(象)が絕対的な弱者として捉えられている。「動物園襲撃」の場合、野獣たちは反撃できる相対的な弱者として描かれている。長穀川潮は、「かわいそうなぞう」について、次のように論じている。「猛獣と言えども、囚われたものである以上は人間に対して弱者であり、いつの時代でも、まず弱者が犧牲にされるのは、動物でも人間でも同じである。そういう弱者の立場に立って猛獣虐殺を扱った文學作品は、今日においても意味を持って入る。だが、それらが本當に力を持ちうるのは、ただセンチメンタルに猛獣の死を語るのではなくて、真実に基いてその責任を追求しているときなのである。」
長穀川潮「ぞうもかわいそう——猛獣虐殺神話批判」「戰爭児童文學は真実をつたえてきたか」梨の木舎、pp.2930。
村上は1949年の生まれで、子ども時代に「かわいそうなぞう」をんだことがあるかどうかは確かめられないが、小學校教材にも収録されたこの作品は、戰後児童文學の名作として広く知られている。「動物園襲撃」と「かわいそうなぞう」とは、類似した歴史上の出來事を敘述しているとはいえ、異なる方向の「記憶」を提示している。むしろ前者では、被害が強調される「記憶」の書き換えが行われ、加害の記憶が血みどろなイメージで表現されていると考えられる。
7. 「満洲國」陸軍軍官學校についての證言
「新京の動物園」における動物射殺事件の後、第3部第28章「ねじまき鳥クロニクル#8(あるいは二度目の要領の悪い虐殺)」では暴力がグレードアップする。この章で語られるのは、8人の兵士が4人の中國人を動物園に連行して、虐殺した話である。中尉は中國人たちのうち3人を銃剣で殺し、北海道出身の若い兵士に命じて、殘りのひとりをバットで叩き殺させた。この場麵は「ねじまき鳥クロニクル」における反復する暴力のクライマックスとなる。「満洲國」軍の士官學校の中國人逃走兵が捕まった緯は次のように述べられている。
「この連中は満州國軍の士官學校の生徒でした。新京防衛の任務に就くのを拒否して、昨日の夜中に日係の指導教官二人を殺して脫走したのです。我々は夜間巡回中に彼らを発見してその場で四人を射殺し、四人を捕縛しました。二人だけがにれて逃げてしまった」
「村上春樹全作品1990—2000 ⑤ ねじまき鳥クロニクル2」講談社、p.274。
「満洲國」崩壊寸前に、士官學校生の「反逆」の歴史的背景が反映されている。具體的にどこの士官學校かはが明言されておらずないが、やはり「新京の動物園」と同、固有名詞は避けられている。ここでは「満洲國」陸軍軍官學校についての回想文を參照し、分析する。
【原文】偽滿長春陸軍軍官學校孫景大
陸軍軍官學校成立於1939年春,結束於1945年8月日寇投降,壽命6年
半。共招生7期19個連,二千人,畢業生共三期計八百多人。其中有日本學生
200多人。僅三期和六期有日本學生。四期至七期,因中國抗戰勝利,“滿洲國”壽
終正寢,軍校也隨之解體,因而未能畢業。
招生來源,除三、六兩期從日本國招來兩百來名學生外,都是從偽滿高中、
國高畢業生中(偽滿學製改革,從1939年起將初高兩級中學合並,學製為四年,
名為國民高等學校)招生,經過考試錄取的。但這個學校不與其他大學統考,而
是單獨招生,學科考試與一般大學相同,身體檢查較為嚴格。校部還有學生的檔
案、照片、指紋等,俱備極齊。日偽當局,表麵上對學生的思想控製不嚴,實際上外
鬆內緊,特別是對高年級學生,更是注意考察其言行及思想動態。一次在飯廳兩
國學生拉隊對打起來,戰局一開,兩軍對峙,板凳飯桶,皆為武器,戰鬥十分激
烈。事後日寇憲兵隊開來幾部汽車,準備抓人。校長南雲親一郎在家得知,用電
話斥退了憲兵隊,平息了這一事件。這是老牌殖民者(日本軍少將,偽滿中將)
采取的安撫方法,防止激化而已。(《長春文史資料》)
孫邦、於海鷹、李少伯編「偽滿軍事偽滿史料叢書」吉林人民出版社、1993年12月、pp.656657。
【文】偽満洲國長春陸軍軍官學校孫景大
陸軍軍官學校は、1939年の春に設置され、1945年8月に日本の降伏ととも
に消滅するまで6年半にわたり存在していた。入學者數は7期19連隊で2000
人であった。卒業生は合計3期800人以上であった。中に日本人學生は200人
以上がおり、3期と6期だけにいった。4~7期生は、中國の抗日戰爭勝利で、
偽満州國が滅亡し、學校が解體されたため、卒業できなかった。
學生の募集は、日本から來た3期と6期の200名を除き、偽満洲國の高級中
學校と國民高等學校(學製改革により、1939年から初級中學校と高級中學校が
合併されて四年製となり、「國民高等學校」と呼ばれるようになった)の卒業生
を対象として、試験により採択した。ただし、この學校は他の大學との共通試
験とはせず、獨立募集とされていた。學科試験は普通の大學と同であるが、
身體検査が厳しかった。學校には學生の身上調書(履歴書など)、寫真、指紋な
どが完備されていた。傀儡當局は、表麵的には生徒たちへの思想製は厳しく
なさそうに見せかけていたが、実際にはその逆であった。特に上級生の言行や
思想動向を更に注意·考察していた。ある日、食堂で両國の學生たちが仲間を
組んで爭った。両者が対峙し、ベンチや食器も武器とされ、喧嘩は非常に激し
かった。後で日本の憲兵隊の自動車が走ってきて、人々を逮捕しようとした。
校長の南雲親一郎は事情を知り、電話で憲兵隊を引き下がらせ、事件を鎮めた。
これは、この古くからの植民者(日本の陸軍少將、偽満洲國の陸軍中將)が激
化を防ぐために取った方法であった。(「長春文史資料」)
この回想文からもわかるように、傀儡國家であった「満洲國」には、支配——被支配というアンバランスな権力構造の中で、火種が密かにたまっていた。「ねじまき鳥クロニクル」での士官學生の逃走や反逆は、歴史の実相に基づいたものである。それは想像力の発揮によって芸術的に表現された「記憶」と言えよう。「ねじまき鳥クロニクル」の物語世界では、暴力が中心的に語られているが、それについては改めて詳しく検討する。次章では、これらの「ノモンハン」、「新京の動物園」の記憶を作品の全體構造と合せて、さらに分析を深める。
8. 遅子建「偽滿洲國」と暴力の描寫
「偽滿洲國」(日本語「満洲國物語」)は、遅子建が、7年間にわたり図書館や古書店などで歴史資料の調査を行った上、1998年4月から1999年12月にかけて執筆した長編小説である。2000年10月に作家出版社より刊行され、その後、2004年に人民出版社より再版された。日本語版は孫秀萍により翻され、2003年7月に河出書房新社より出版された。
「ねじまき鳥クロニクル」と「偽滿洲國」は、いずれも「満洲」の記憶を取り入れた作品であるが、々な麵で違いを見せている。明らかに、「偽滿洲國」では「満洲國」が直接なテーマとして取り扱われるが、「ねじまき鳥クロニクル」では「満洲國」に関わる記憶は挿話として入れられた形となっている。両作品は、ほぼ同じ時期=1990年代に創作された。遅子健は黒竜江省の出身で、「満洲國」についての験を持たない世代である。遅子建は史料調査に基づいて、広大な「満洲國」の全體像を書き上げた。村上春樹の場合は、プリンストン大學の図書館などで「ノモンハン」や「新京動植物園」についての歴史資料を調べた上で書き始めたのである。この節では、具體的な両作品の違い、特に暴力についての描寫に注目する。
「偽滿洲國」は一般の人々の日常生活の描寫を通して、大きな歴史を呈示している。一般人の喜びと悲しみ、「黒の土地」の風習が濃厚に描かれた作品である。登場人物は広い範囲にわたり、中國人、日本人、朝鮮人、ロシア人を含み、さまざま階級の人間、溥儀から庶民、乞食、娼婦、日本軍人、日本の開拓民までが々登場する。登場人物のそれぞれの日常生活の進展がこの小説の筋である。呉義勤は「偽滿洲國」の歴史敘述について、「遅子建は実在の歴史時期を描いているにもかかわらず、彼女は歴史を記録しようともしない。大きな政治的事件は作家の主な注目対象になっていない。その中の人物はみんな政治的な影の下で暮らしているが、作家が関心を持っているのは彼らの內麵の世界や感情だ。このような語り方は、作者には手慣れたものだ。したがって、それはこの長編の成功したところと思う」
吳義勤、賀彩虹等「歴史·人性·敘述新長篇討論之一:「滿洲國」」「小說評論」(200101)山東師範大學中文係研究生、2001年1月p.8。拙、原文:「遲子建寫的雖是一段真實存在的曆史時期,但她無心為那段時期作史,巨大的政治風雲沒有成為作家主要的關注對象,雖然其中的人物都在那團政治陰影下生活,但作家所關心的仍然是他們的內心世界和情感生活,這種敘述對於作家來講,是她輕車熟路的。因此,我認為這也是她這部長篇的成功之處。」
と述べている。
「偽滿洲國」では、平頂山虐殺事件、731部隊などの戰爭中の暴力は、庶民が遭遇した事件として描かれており、歴史事件の全貌の再現が目指されているわけではない。たとえば、この小説では、731部隊の人體実験の歴史についての描寫は、個人の體験を通して語られる。教師の王亭業は、反日スローガンが隠された詩で捕まり、投獄されて、精神異常になり、最後には731部隊に送られる。王亭業は実在した人物ではないが、実在したとしてもおかしくない人物像である。また、平頂山虐殺事件は第二章「一九三二年」第六節で詳しく描寫されている。
【原文】
他們所處之地的南麵站著一排排手端刺刀的日本兵,北麵的奶牛飼養場的鐵
絲柵欄像網一樣陰森森地絕斷他們的後路。西麵的斷崖陡壁如冷麵殺手一樣讓人
不可逾越,東麵的山坡上則放著幾個用布蓋著的帶支架的東西。人們竊竊私語著,
把它們當成一台台氣派的照相機。有個還在繈褓中的小孩子叼著媽媽的奶頭香甜
地吮吸著,他不時發出“吧唧吧唧”的裹奶聲,就好像魚兒在水中悠閑地吐氣泡。
一對平素總是吵鬧不休的小夫妻緊緊地擁抱在一起,男的不時用手去揉搓妻子的
頭發,使那頭發蓬起如一堆烏雲。正在人們驚魂未定的時候,蒙著什麼東西的布
被刷拉拉地扯開了,一挺挺機關槍把它黑洞洞的槍口對準眾人。就在一個日本軍
官揮手之間,機關槍的火舌像熾烈的岩漿一樣噴湧而出,頃刻間,人群中血肉橫
飛,慘叫聲驚天動地地響起。一個八歲的孩子當時正啃著月餅,子彈當胸穿透他
的脊梁,他彈跳了一下,手中的半塊月餅飛向空中。這月餅落下時滑著一個老人
血肉模糊的臉,立刻就成了血餅了。
遲子建「偽滿洲國」人民文學出版社、2005年、p.34。
【文】
村民が座っている場所から南側に、日本兵が橫並びに立って皆を見據えてい
た。北側は鉄の柵が張られ、西側は斷崖になっているので、蟻一匹逃げる隙が
なかった。東側の丘には何か所かに布で覆った何物かが置いてあった。人々は
ひそひそとささやき、布の下はカメラではないかと推測した。不安が漂うなか
で、坊だけが母親の乳首を美味しそうに音を立てながら夢中にしゃぶっていた。
普段は喧嘩ばかりしている若夫婦も抱き合っていて、夫は妻の髪の毛を何度も
撫で下ろした。すすり泣きも聞こえてきた。急に布が取り除かれ、機関銃の黒
い銃口が死神のように人の群れを睨み付けた。人々はざわめいた。指揮官が手
を振り下ろすと、銃口から一斉に火が吐き出され始めた。一瞬のうちに、人間
の血と肉が飛び交い、凹地には驚天動地の悲鳴が響いた。一人の8歳の子ども
は月餅を嚙んでいるところに、弾丸が胸から背骨を透過した。この月餅が落ち
た時、一人の老人の血まみれな顔に擦れると、たちまち血色の月餅になってし
まった。(文は馮)
中秋節の美しい夜に起こった事件の殘虐さは、神の視點でクローズアップされたように語られている。美蓮一家は楊浩だけが奇跡的に生存した。「偽滿洲國」では、歴史事件に対する捉え方の趣旨が、「ねじまき鳥クロニクル」とは違うことは明らかである。歴史事件の部はイマジネーションで構成されているが、リアリティーを感じさせる。「ねじまき鳥クロニクル」における暴力のシーンは、主に、ノモンハンでの皮剝ぎ、動物の射殺、4人の中國人の慘殺という形で見られる。「ねじまき鳥クロニクル」においては、ノモンハン事件や「満洲」引き揚げという大きな歴史の実像を尊重した上で、歴史事件を直接描寫するのではなく、フィクション性が際立ち、メタファーとしての意味が強調され、物語の寓意性が重視されている。遅子建は「偽滿洲國」を創作したときの思いを次のように述べている。
私の基本的な態度は、歴史を尊重し、歴史の真実を保持し、作家としてある
べき良知を持つとともに、作品中の人間に、中國人にしろ、日本人にしろ、す
べてにヒューマニズムの意味を付與する、というものである。
中國語原文:「我的基本態度是,尊重曆史,保持曆史的真實,在保有一個作家應有的良知的同時,我對作品中的人,不管他是中國人還是日本人,都賦予人性的意義。」「附:〈溫情是寒夜盡頭的幾縷晨曦〉」「偽滿洲國」、人民文學出版社、2005年、p.711。
(文は馮)
上の引用からも分かるように、「偽滿洲國」では歴史への尊重、人間性重視にポイントが置かれている。つまり、遅子建は自らの想像力に基づき、具體的で生き生きとする人物像を創作したのである。それと対照的に、「ねじまき鳥クロニクル」では、血みどろなイメージの表現に重點が置かれ、登場する中國人やモンゴル人は、「記號」のような他者として取り扱われ、言葉も表情もほとんど描寫されていない。「偽滿洲國」では、日本人の人間性にも、筆を多く費やしている。楽観的で善良な庶民·中村正保から、センチメンタルな羽田少尉、凶悪な北野南次郎に至るまで、人間性の多な側麵を豊かに表現している。1990年代以後の「記憶の時代」において、戰爭未験世代の、日中のこの二人の作家は、學ぶという姿勢で「満洲」の記憶を異なる表現で構築しており、體験化記憶を験化させ、文化的記憶の形成にポジティブな役割を果たしていると言える。
び
本章では、植民地や戰爭に関する異なる態の「記憶」と「ねじまき鳥クロニクル」との比較を通して、村上春樹が再構築した「記憶」の特徴を明らかにした。具體的に歴史研究の成果を參照し、中國語「偽満」資料(證言や験談)、小説「靜かなノモンハン」、児童文學「かわいそうなぞう」における該當する內容や側麵を取り出して、「ねじまき鳥クロニクル」での「ノモンハンの話」、「新京の動物園」と対比し、その村上による「記憶」の実像と虛像を明確し、特にテクストに語りえない、語られない「記憶」の存在を確認した。そして、「ねじまき鳥クロニクル」を同時代に創作された中國小説「偽滿洲國」と比較して、戰爭という暴力の描かれ方、歴史記述の違いを論じた。「ねじまき鳥クロニクル」では、物語のフィクション性が故意に強調され、寓意性が重視されている。「偽滿洲國」では、一般の人々の日常生活の描寫で、大きな歴史が呈示され、人間性重視にポイントが置かれていると論じた。
鈴村和成は、「村上はここで、満州の歴史、日本の行った戰爭と現代とを歴史的にんでいるのかというと、必ずしもそうではない。あるいは満州の出來事でなくてもよかったかもしれない。そういう「かもしれない」という暫定性が仕組まれながら語られている歴史なんですね。」
鈴村和成、沼野充義「対談:鈴村和成、沼野充義「ねじまき鳥」は何処へ飛ぶか——村上春樹「ねじまき鳥クロニクル·第3部鳥刺し男編」をむ」「文學界」第49巻10號、文芸春秋社、1995年、p.104。
と論じている。しかし、本章での分析を通してわかるように、「ねじまき鳥クロニクル」の「記憶」の原形となる「ノモンハン事件」や「新京動植物園」は、現在の日本社會にとってそれぞれ特別な意味を持つことがわかる。作者は真剣に取捨選別をして「満洲」を選んだのだと言える。したがって、このテクストにおける「満洲」記憶は暫定的なものだとはいえず、むしろ「満洲」以外の歴史が組み込まれたとしたら、作品の伝える意味も大きく変わると考えられる。
次章ではメタファーの解釈·暴力としての「記憶」·コミュニケーションと「記憶」、という三つの方麵から作品全體を分析し、「記憶」の物語の中での意味を検討する。
第三章「ねじまき鳥クロニクル」におけるコミュニケーションの切斷と「記憶」の回復
第三章「ねじまき鳥クロニクル」
におけるコミュニケーションの
切斷と「記憶」の回復
はじめに
「ねじまき鳥クロニクル」は、初めて戰爭という形の暴力が正麵から扱われた作品である。この小説の創作はアメリカで行われたと言える。村上は1991年、プリンストン大學に客員研究員として滯在中に、第1部と第2部を執筆した。1993年7月に、村上はプリンストンからマサチューセッツ州ケンブリッジへ移って、執筆をけた。ケンブリッジに住んでいる間、第3部の取材のために、中國東北部とモンゴルに渡って実地調査をした。1995年1月の阪神·淡路大震災のときも、第3部を書き上げたのも、ケンブリッジ滯在の時代だった。
1991年1月に日本を出てアメリカに向かう準備をしていたとき、ちょうど灣岸戰爭が始まった。「準戰時體製」に包まれ、村上は不安を感じる。村上には、アメリカの土地に立って日本を見る契機が與えられることになった。彼は、アメリカ體験の感想などを記したエッセー集「やがて哀しき外國語」で、次のように語る。
でもただひとつ真剣に真麵目に言えることは、僕はアメリカに來てから日本
という國について、あるいは日本語という言葉についてずいぶん真剣に、正麵
から向かい合って考えるようになったということである。僕は正直に言って、
若いころ、小説を書き始めたころは少しでも日本という狀況から遠くへ逃げた
いと思っていた。言い換えれば、少しでも日本語的なものの呪縛から遠ざかり
たいと思っていた。
村上春樹「やがて哀しき外國語」講談社、1994年2月、pp.278279。
この作品は村上春樹作品の最も大きな転換點と言われている。彼自身も「デタッチメント」から「コミットメント」への変化について、「「ねじまき鳥クロニクル」はぼくにとってほんとうに転換點だった」と語っている。
河合隼雄、村上春樹「村上春樹、河合隼雄に會いに行く」岩波書店、1996年、12月、p.69。
つまり、「中國行きのスロウ·ボート」が「対社會意識の目覚め」を示す作品だと言えるとすれば、「ねじまき鳥クロニクル」は、村上が大いに社會への関心を示しはじめた転換點といえる。その後に発表された「アンダーグラウンド」(講談社、1997年)は、村上が地下鉄サリン事件の被害者と関係者にインタビューを行ってまとめた作品である。
「ねじまき鳥クロニクル」についての先行研究は數多く存在するが、「記憶」という観點からはさらなる論考が必要である。
川村湊は、ハルハ河の「こっち」と「あっち」を繋ぐ橋は、小説の「こっち」と「あっち」の世界を何とか架橋しようとするものである、と、作品の構造について分析している。
川村湊「現代史としての物語——ノモンハン事変をめぐって、ハルハ河に架かる橋」「村上春樹スタディーズ04」栗坪良樹他編、若草書房、1999年、pp.2838。
橋本牧子は、「遠い昔の「ロマン」の記憶として語られてきた「満州」という出來事を、加害者としての「日本」·「日本人」による暴力として〈歴史化〉し、新たな「脈」のもとで、「今·ここ」に生きる我々の〈歴史物語〉として語り出そうとすること。村上春樹が「ねじまき鳥クロニクル」で試みたことは、〈歴史〉を、否応なく我々の眼の前にあるものとして、あるいは我々の內にあるものとして描き出そうとすることであった」
橋本牧子「村上春樹論——80年代·90年代の軌跡——」(博士論文)広島大學大學院教育學研究科文化教育開発専攻、2003年3月23日、p.86。
と肯定的に論じている。
一方で、この作品については批判的な評論もある。蓮實重彥は次のように語る。
問題は、たまたま起こってしまった半世紀後の反復のほとんどが、イマジネ
ーションの世界で起こっているということだ。……すべては想像の世界のでき
ごととして解消されてしまうのだ。修羅場では「想像することは命取りになる」、
だから、「想像してはいけない」と周囲の人物から忠告されていながら、「僕」
の振る舞いはいずれも想像によって保護されている。どうやら「僕」は、ナツ
メグの父親の物語に登場していたバットを凶器として、クミコの兄(=「綿穀
昇」)を慘殺したかのようなのだが、それとて、イマジネーションの中のできご
とにすぎないだろう。
蓮實重彥「歴史の不在」「朝日新聞(夕刊)」1995年8月29日。
すなわち、「ねじまき鳥クロニクル」では、主人公は內麵の心理活動だけを行っており、現実世界での悪としての綿穀ノボルに対しては、実際の行動を何も取っていないという批判である。
前章では、記憶研究の観點から「ねじまき鳥クロニクル」における「ノモンハン」と「新京の動物園」に焦點をあて、多態の記憶と比較しながら、主に表象としての「記憶」を分析した。本章では、先行研究を踏まえた上で、前章での検討にき、メタファーの解釈·暴力としての「記憶」·コミュニケーションと記憶、という三つの方麵から作品全體を貫くモチーフの分析につなげて、物語としての作品の意味を検討する。植民地や戰爭をめぐる記憶が、いかに敘述され、それがいかなる意味を持つのかについての具體的な考察を行う。
1. 「ねじまき鳥」と井戸
「ねじまき鳥クロニクル」は、仕掛けが多く詰め込まれており、非常に隠喩性の高い作品である。迷宮のようなムラカミ·ワールドは者にとって難解である。そのため、本章ではまず、「ねじまき鳥」と「井戸」の、メタファーとしての意味を明らかにしたい。
主人公「僕」(岡田トオル)の妻であるクミコは、近所の木立の中で、ねじでも巻くようなギイイイッと規則的な聲で鳴く鳥を「ねじまき鳥」と名付けた。姿の見えない「ねじまき鳥」は、毎朝、僕の近所にやってきて、「僕」の靜かな生活は変わっていく。そして「僕」は、出會ったばかりの女子高校生の笠原メイから、「ねじまき鳥」というあだ名で呼ばれるようになった。「僕」はクミコに電話で頼まれて、いなくなった貓を探しに行くが、彼女は「たぶん路地の奧の空家の庭にいるんじゃないかと思うの。鳥の石像のある庭よ」
「村上春樹全作品1990—2000 ④ ねじまき鳥クロニクル1」講談社、2003年7月、p.18。
と言う。そこで初めてその路地の奧に行ってみると、「たしかに翼を広げた鳥をかたどった石像が置かれ」ていて、「こんな不愉快な場所からは少しでも早く飛び立とうと翼を広げているみたいに見えた」。
「村上春樹全作品1990—2000 ④ ねじまき鳥クロニクル1」講談社、2003年7月、p.26。
村上作品における鳥たちの意味について、ジェイ·ルービンは「村上作品における鳥たちが意識の世界と無意識の世界の活発なやりとりの象徴だとすれば、こうした凍りついた鳥たちは一種の記憶喪失を示唆する」
ジェイ·ルービン著、畔柳和代「ハルキ·ムラカミ言葉の音楽」新潮社、2006年9月、p.257。
と解釈している。
次に「ねじまき鳥」が作品に出ているシーンを分析する。北海道出身の若い兵隊が大貓類(虎)を銃殺した後で、「ねじまき鳥」の鳴き聲が聞こえる。
(もちろん本人にはわからないことだが、この兵隊は十七ヶ月あとにイルク
ーツク近くの炭坑で、ソビエトの監視兵にシャベルで頭を割られて死ぬことに
なる)。彼は手のつけねのところで額の汗をぬぐった。ヘルメットがひどく重く
感じられた。がようやく気を取り直したように、一匹また一匹と鳴き始めた。
やがてそれに混じって鳥の聲も聞こえた。その鳥はまるでねじを巻くような奇
妙な特徴のある聲で鳴いた。ギイイイイイイ、ギイイイイイと。
「村上春樹全作品1990—2000 ⑤ ねじまき鳥クロニクル2」講談社、2003年7月、p.100。
「ねじまき鳥」の鳴き聲が聞こえたところで、語り手はこの兵隊の一七ヶ月後のシベリアでの運命を明かしている。いて、第3部第28章「ねじまき鳥クロニクル#8(あるいは二度目の要領の悪い虐殺)」では、この兵隊は、四人の中國人を野球バットで毆り、そのうち一人に向かって銃を撃った後で、再び「ねじまき鳥」の鳴き聲を聞く。そして語り手は「伍長はシベリアの収容所でペストでしぬ」
「村上春樹全作品1990—2000 ⑤ ねじまき鳥クロニクル2」講談社、2003年7月、p.279。
と他の兵隊たちの運命を語る。この若い兵隊だけは「ねじまき鳥」の鳴き聲を聞いた。この若い兵隊は岡田トオルの分身のような存在である。兵隊自身はこれからの運命を全然知らないが、兵隊の中に潛り込んだ「トオル」はそれを知っているはずである。前に挙げたジェイ·ルービンと沼野充義の論述を合わせて考えれば、ねじまき鳥のねじを巻くというのは、暴力としての歴史記憶が蘇ってくることのメタファーと解釈してもよいと考えられる。この作品は、「クロニクル」(=年代記)という語をタイトルとしていることからも推測されるように、年代·歴史が重要な役割を果たしている。第1部では、タイトル裏ページに「一九八四年六月から七月」、第2部では「一九八四年七月から十月」と年·月が明記されている。第3部では年代は明記されていないが、作品盤で妻と再會した主人公「僕」(岡田亨)が「一年と五ヵ月ぶり」と言っていることから計算すると、第1部で夏に妻が出て行ってから1年5ヶ月後の一九八五年十二月までが、「僕」の語りの「現在」として描かれていることになる。そして、「僕」が出會った人物たちの語りやコンピューター內のファイル等を通して、「ねじまき鳥」がねじを巻くことで過去の時代の出來事も語られていく。すなわち、戰爭の時代の「ノモンハン」や「新京の動物園」である。したがって、本作のタイトル「ねじまき鳥クロニクル」の隠喩的な意味は「歴史」のねじを巻く年代記ということである。
そして、「ねじまき鳥クロニクル」において、もっとも重要なメタファーは井戸だと言える。最初の長編小説「風の歌を聴け」にもすでに井戸が登場しているが、その後、「1973年のピンボール」(講談社、1980年6月)の直子の町の井戸、「ノルウェイの森」(講談社、1987年9月)の野井戸、そして本作でのモンゴル草原の井戸と宮脇邸の井戸、というように、村上作品では井戸というモチーフは頻繁に用いられてきた。「井戸」というメタファーについては、フロイトの精神分析學で少し分析する。
「僕」は空き家の井戸の底に降りて、妻のクミコを探し出す決意をする。ジェイ·ルービンは「井戸のなかへ、つまり自分のなかへ降りることは、婚という誓にふさわしい人間になるためにトオルが直麵しなければならない試練である」
ジェイ·ルービン著、畔柳和代「ハルキ·ムラカミ言葉の音楽」新潮社、2006年9月、p.255。
と指摘している。第3部で、「僕」はまた井戸の底に下りて行く。
壁に取り付けた鉄の梯子をつたって真っ黒な井戸の底に下りると、僕はいつものように手探りで、壁に立てかけておいた野球のバットを捜し求める。
(中略)
井戸の底は深海の底によく似ている。そこではあらゆるものごとが圧力に押さえつけられるように、原形のままにじっととどまっている。
(中略)
僕はの奧の方に、その微かな繋がりの発生を感じとることができる。そう、それでいい。あたりはとても靜かだし、彼らはまだ僕の存在に気づいてはいない。僕とその場所を隔てている壁が少しずつゼリーのように柔らかく溶解していくのがわかる。僕は息をひそめる。
「村上春樹全作品1990—2000 ⑤ ねじまき鳥クロニクル2」講談社、2003年7月、p.8589。
々な意識や無意識の幻影を自由に走らせた後で、「僕」はバットで壁を叩くが、やはり恐怖を感じたので、地表にった。「井戸」は精神分析の概念「イド」と同じ発音であり、その象徴である。イドは精神分析では人格構造に関する基本的概念のひとつであり、人間が生まれつき持っている無意識の本能的衝動、求などの精神的エネルギーの源泉である。イドは快を求め不快を避ける快楽原則に支配されている。
鬆村明監修「デジタル大辭泉」小學館、2013年4月、http:\/\/kotobank.jp\/word\/イド、(C)Shogakukan Inc.2014年9月18日検索。
井戸を降りる行為は、無意識の世界へと繋がって行くことを意味する。暗の中で、「僕」は思いを巡らせ、肉體の存在を見失ったかのように、完全に記憶や意識の流れに呑み込まれ、そして意識と無意識のあいだを彷徨う。トオルが井戸の底で験したのは、自己の內麵における闘いである。「僕」が井戸の底に関心を持つようになったきっかけは、間宮中尉から聞いた話だった。間宮中尉は、ノモンハンでロシア兵に逮捕され、山本がモンゴル兵によって皮をはがれるのを目撃した後、枯井戸のそばへ連れて行かれる。そこで彼は、銃に撃たれて死ぬよりも、井戸の中に飛び込むことを選び、その中で數日間を過ごした。間宮は「僕」に、暗い井戸の底で一日にほんの數分間地上からの光が屆いたときの感動や、死の幻影を見たことなどを語った。局、彼は本田の予言通り生き殘って、本田によって井戸のなかから助け出されたのだった。こうして、戰時下のモンゴル草原と1980年代の世田穀區は井戸によって繋げられ、間宮中尉と「僕」は、同じ內麵の體験を共有することになる。
2. 遍在する暴力性
「ねじまき鳥クロニクル」には暴力が遍在している。これまでの村上作品にはない、得體の知れぬところから湧き出る暴力が登場する。作品で描かれる暴力には、他者の身體に対する物理的な破壊力という一般的な意味の暴力のみではなく、精神的暴力や、さらには政治的な暴力も見られる。具體的には、間宮中尉が目撃した、山本が生きたまま身體の皮を剝がされる場麵、赤阪ナツメグが見たか、あるいは見なかった新京の動物園での動物の射殺、シナモンによってパソコンファイルで伝えられた、銃剣で逃走兵の內髒をえぐって刺殺する場麵、そして、綿穀ノボルの加クレタに対する性暴力、さらに「僕」の「綿穀ノボル」に対するバットによる「撲殺」など、個々の暴力の物語の反復により、暴力の編年史として大きな物語が構成されている。この中でも、戰爭の記憶は暴力の究極的な姿といえよう。そこでは登場人物の冷酷さが生々しく表現されており、山本、皮剝ボリス、綿穀ノボルという冷血な人間像が描き出されている。山本上官と皮剝ボリスの造型は、現代社會においてエリート政治家が所有する暴力性にも通じている。ソ連軍人がモンゴル人兵士に命令し、冷酷な日本軍人である山本を皮剝ぎにするモチーフは、人類の奧底に潛む暴力の普遍性を表現したものだと考えられる。ならば、井戸への降下は、まさに暴力の根源を探っていく行為だということになる。
綿穀ノボルはクミコの兄である。彼は、エリートにならなければ生き殘されないという父親の人生観を受けいで、済學者の道を選び、イエールの大學院、東大の大學院をて研究者となった。34歳のときに出版した済學の専門書が批評家から絕賛され、マスメディアの腳光を浴びる存在となる。伯父である衆議院議員、綿穀義孝の地盤をいで政界への進出を図る。見合い婚は二年しかかず、現在は獨身である。綿穀ノボルとは、現代日本社會における具現化された邪悪である。岡田トオルは最初からずっと綿穀ノボルに対して、嫌悪感を抱えている。そして、占い師の加マルタの妹=加クレタが綿穀ノボルにレイプされた。加クレタは次のように語る。
「その痛みはまるでかなてこのように、私の意識の蓋を強い力でこじあげてい
ました。痛みは意識の蓋をこじあけ、私の意思とは関係なく、その中にある寒
天のようなかたちをした私の記憶をずるずるとひきずりだしていました。(中略)
なんだかすべての記憶とすべての意識がすっかり抜け落ちてしまったみたいで
した。何もかもが自分の外に出ていってしまったように思えました。(中略)
そして意識がったとき、私はまた別の人間になっていました。」
「村上春樹全作品1990—2000 ④ ねじまき鳥クロニクル1」講談社、2003年7月、pp.445446。
クレタは綿穀ノボルによる性暴力を詳しく語った。果として「すべての記憶とすべての意識がすっかり抜け落ちてしまった」とあるように、ノボルがクレタに対して行った性暴力は、「記憶」を他者から抹消しようという政治的な暴力のメタファーと考えられる。「僕」は井戸の底で、綿穀ノボルのテレビでの講演を夢見た。「そのような人々のことは忘れてしましょう。途方に暮れた人には、途方に暮れさせておけばいいのです」
「村上春樹全作品1990—2000 ④ ねじまき鳥クロニクル1」講談社、2003年7月、p.359。
と語る綿穀ノボルに対して、「僕」の怒りは湧き上がった。「綿穀ノボルはテレビという巨大なシステムを使って、僕ひとりに暗號のようなメッセージを送りつけることができるのだ」
「村上春樹全作品1990—2000 ④ ねじまき鳥クロニクル1」講談社、2003年7月、p.360。
と「僕」は思った。ノボルは、トオルが內麵で「記憶」を取りそうとする行為を妨害する発言をしている。ここでは、「記憶」を損なう綿穀ノボル=政治権力による暴力が示唆されている。村上作品の男性主人公としては珍しく、「僕」は怒りを抱えたように描かれている。
トオルがクミコをから現実世界へ連れすためには、まず綿穀ノボルという邪悪に直麵しなければならない。そこで、トオルはクミコを取りすために、井戸の壁の向こうの、クミコであるはずの女のいる208號室で、ノボルらしき男をバットで毆り倒す。すると現実に、ノボルは長崎で脳溢血で倒れた。ここでは、トオル自身の內麵の奧底にも暴力の衝動が潛んでいることが示されている。トオルはようやく起き上がれるようになって、あざの消えていることに気づく。トオルは勇気を持ってポジティブな行動をみせたのである。
2004年の作品「アフターダーク」もまた、人間の無意識領域にある暴力性をモチーフにしている。柴田勝二は、「クミコの姉や加クレタを陵辱した過去を持つ彼の分裂が、いわばわかりやすく白川に凝縮されている」、「こうした不可解な他者的な「底」が人間に遍在する」
柴田勝二「批評遍在する「底」——「ねじまき鳥クロニクル」「アフターダーク」における暴力」「敍説Ⅲ:文學批評」花書院、2008年12月、p.128。
と綿穀ノボルと白川の共通點について指摘している。
「僕」は井戸の底、の中に座って思いを巡らせて、クミコと上野動物園の水族館での最初のデートのことを思い出す。そのとき、クミコは「僕」にこう語る。
「……本當の世界はもっと暗くて、深いところにあるし、その大半がクラゲみたいなもので占められているのよ。私たちはそれを忘れてしまっているだけなのよ。そう思わない?地球の表麵の三分の二は海だし、私たちが肉眼で見ることのできるのは海麵というただの皮、膚、にすぎないのよ。その皮膚の下に本當にどんなものがあるのか、私たちはほとんど何も知らない。」
村上春樹「村上春樹全作品1990—2000 ④ ねじまき鳥クロニクル1」講談社、p.337。
(傍線原文)
「皮膚の下に本當にどんなものがあるのか」という記述は、ユング心理學における集合的無意識を思い起こさせる。前章では、すでに暴力の「記憶」の例として、山本上官の皮剝ぎのシーンを論じた。上の引用文に暗示されたものと合わせて考えれば、「皮剝ぎ」とは「皮膚を剝がして、下を見る」という意味で、人間の內麵を掘り出す意味合いも帯びていると考えられる。それは、集合的無意識のかげに生息する抽象的な暴力性を探り出すことの、具現化された場麵と言える。その場麵を見ることに堪えられなかった間宮中尉は、その表麵的な殘忍さに恐怖を感じただけではなく、恐らく、その具現化された「集合的無意識のかげ」=「皮を剝がれた身體」にもショックを受けたのである。間宮中尉とトオルは二人とも井戸に降りたことがあり、無意識世界で通じ合い、暴力の「記憶」をも共有する。
「ねじまき鳥クロニクル」に描かれた暴力は、自己の底にのみ存在するのではなく、他者にも、そして人間同士の共通する集合的無意識にも由來するであろう。本作においては、々な形の暴力が展示されており、そこには性暴力、戰爭の暴力、さらに政治的な暴力も含まれている。このようにして、暴力の遍在する編年史(クロニクル)が構成されているのである。
3. コミュニケーションの切斷と「記憶」の獲得
村上春樹文學においては、登場人物の間のコミュニケーションの障害と世代間の斷絕がたびたび設定されている。村上は、1995年11月「ねじまき鳥クロニクル」第3部の刊行直後、心理學者の河合隼雄との対談で、次のように語っている。
「主人公はいろいろな登場人物にコミットメントを迫られるのです。たとえば、
女の子、笠原メイさん、彼女にもコミットメントを迫られるし、それから……。
(中略)もうひとつ、間宮中尉、彼は自分の人生というものをしていこうと
するんです。いろいろなかたちで、彼はコミットメントを迫られる。ただ奧さ
んのクミコさんだけが逃げていく。去って行く。でも、彼がほんとうにコミッ
トメントしたいのは彼女なのです。」
村上春樹、河合隼雄「村上春樹、河合隼雄に會いにいく」新潮社、pp.8586。
(下は馮英華)
ここで村上のいう「コミットメント」とは、人間との関わりを深めるという意味であり、即ち、他人と深いコミュニケーションを取るという意味である。この小説で、「僕」は々な他の登場人物に深く関わって、コミュニケーションを取らなくてはならないという設定となっている。その中でも、一番重要な「コミットメント」はクミコとの夫婦関係であり、クミコへのコミュニケーションを取ろうとすることが、本作の主な筋となっている。
3.1コミュニケーションの中斷
村上が夫婦関係というテーマを取り扱いはじめたのは、短編「ねじまき鳥と火曜日の女たち」からである。村上春樹の長編には、自作の短編を元にして書き換えたものが少なくない。短編「ねじまき鳥と火曜日の女たち」は最初1985年12月に「新潮」(1986年1月號)に掲載され、その後「パン屋再襲撃」(文藝春秋、1986年4月)に収録された。また、「パン屋再襲撃」(文春文庫、1989年4月)、「村上春樹全作品1979—1989 ⑧ 短編集3」(1991年7月)に収録されている。この短編をもとに、「ねじまき鳥クロニクル」「第1部泥棒かささぎ編」の冒頭の章「1火曜日のねじまき鳥、六本の指と四つの乳房について」が書かれたのである。
この短編の粗筋は以下の通りである。ある日の火曜日、失業中の「僕」が家でスパゲティをゆでていると、全く聞き覚えのない聲の女の人から電話がかかってくる。ばかばかしいと思っていると、今度は會社にいった妻から電話がかかってくる。「僕」は妻から、家の裏にある「路地」に入って、行方不明になった貓(ワタナベ·ノボル)を捜すように言いつけられた。午後になって、「僕」は貓を捜しに「路地」に入る。そこで「僕」は「きれいな耳をした娘」に出會う。彼女に誘われるがまま、「僕」は彼女と一緒に、空き家の貓の通り道で待っていたが、貓は一匹も現れなない。そして夜、家に帰ってきた妻は、貓を見つけられなかった「僕」を非難しつつ泣き伏す。
この短編が日常の風景のなか、夫婦の齟齬が飼い貓の失蹤をきっかけに、もはや隠しようもなく表麵化してしまうという物語
石倉美智子「夫婦の運命2村上春樹「ねじまき鳥と火曜日の女たち」論」「文研論集」巻號22、1993年9月。
だと石倉美智子は指摘している。それはあたかも「現実世界の〈コンセント〉が抜かれた狀態」というべきで、齟齬が齟齬として斷絕したまま殘っている構造であるとする。それとは対照的に、齟齬をして放置せず、〈他者のいる世界への帰還〉を図って、その「解決の道を模索しようと試みた」のが長編の「ねじまき鳥クロニクル」であると論じ、そして電話の女と女子高校生を、形を変えた「妻」の分身として捉えている。本論では、この先行研究を踏まえて、さらに詳しく分析する。
村上春樹の小説では、女が男の元を離れていく設定が多い。「羊をめぐる冒険」では、妻は4年間の婚生活をて、「僕」と離婚して家出をした。そして「1Q84」では、天吾の母親は父親を裏切って離れた。「ねじまき鳥クロニクル」でも、「僕」と妻の「クミコ」の間に亀裂が出來ることで、コミュニケーションが中斷される設定がなされている。「クミコ」は亡くなった姉以外の家族に対しては心の扉を閉じていたが、「僕」に対して心を開くようになり、本田さんの大きな後押しにより、やがて婚に至った。二人の付き合いの中でコミュニケーションはスムーズに進んだ。しかし、6年間の婚生活をて、二人の間の隔たりは知らないうちに広がってきた。物語の最初では、夕食を巡る夫婦喧嘩が描かれている。「僕」が中華鍋で牛肉とピーマンを炒めたことで、「クミコ」は「僕」を責め始める。
「私は牛肉とピーマンを一緒に炒めるのが大嫌いなの。それは知ってた?」
「知らなかった」
「とにかく嫌いなのよ。理由は訊かないで。何故かわからないけど、その二
つが鍋の中で一緒に炒められるときの匂いが我慢できないの」
「君はこの6年間、一度も牛肉とピーマンを一緒に炒めなかったのかな?」
「村上春樹全作品1990—2000 ④ ねじまき鳥クロニクル1」講談社、2003年、p.47。
これは非常に象徴的な場麵と言える。婚してから6年がったのに、「僕」はクミコの日常の食習慣さえ知らない。作者である村上が、自分が中華料理を食べない理由は昔の戰爭と関わりがある、と語ったことがあること
イアン、ブルマ「イアン·ブルマの日本探訪:村上春樹からヒロシマまで」石井信平、TBSブリタニカ、1998年、pp.9293。
から推測すれば、ここでのクミコには多少村上と重なるところが見受けられる。「僕」とクミコとの間にこのような齟齬が生じたことは、戰爭の記憶の喪失を示唆しているのであろう。そして「僕」は、だんだん妻のクミコと「コミットメント」ができなくなっていることに気づいて、そのことを斷的に考えつづける。
ひとりの人間が、他のひとりの人間について十分に理解することというのは
果たして可能なことなのだろうか。(中略)
その夜、僕は明かりを消した寢室の中で、クミコの隣に橫になって天井を見
ながら、自分はこの女についていったい何を知っているのだろうと自問した。
(中略)
それはただの入口なのかもしれない。そしてその奧には、僕のまだ知らない
クミコだけの世界が広がっているのかもしれない。それは僕に真っ暗な巨大な
部屋を想像させた。僕は小さなライターを持ってその部屋の中にいた。ライタ
ーの火で見ることが出來るのは、その部屋のほんの一部にすぎなかった。
僕はいつかその全貌を知ることができるようになるのだろうか?あるいは僕
は彼女のことを最後までよく知らないまま年老いて、そして死んでいくのだろ
うか?もしそうだとしたら、僕がこうして送っている婚生活というのはいっ
たい何なんだろう?そしてそのような未知の相手と共に生活し、同じベットの
中で寢ている僕の人生というのはいったい何なんだろう?
「村上春樹全作品1990—2000 ④ ねじまき鳥クロニクル1」第1部、講談社、pp.4354。
夫婦間のコミュニケーションが円滑でなくなり、加姉妹と笠原メイの何度かのやり取りのうちに、いつしか「クミコ」が行方不明になる。クロゼットの中には妻のワンピースやブラウスなどが殘されたままである。短編「トニー滝穀」でも、「トニー滝穀」が交通事故で亡くなった妻の殘した服を、殘された影のように見る描寫がある。こうしてコミュニケーションの決定的な斷絕が顕在化する物語が開幕する。そのほか、田中さんがノモンハン事件の時に聴覚を失ったこと、ナツメグの息子=シナモンが6歳の時から聲を喪失したこと、老世代の田中さんの不在というこれらの設定は、コミュニケーション切斷の物語に伏を敷いていることにほかならない。この小説は、「僕」が「クミコ」を探す過程で、井戸の中に降りたり、奇妙な人物と出會ったりすることを通じ、「ノモンハン」と「新京の動物園」の「記憶」を獲得する、コミュニケーションの回復を求める物語としてむことができる。
3.2妻の空白を埋める笠原メイ
複數の女性が々と登場し、岡田トオルに會話したり、アドバイスしたりして、妻の不在の空白を埋める。その中でも一番重要な存在が笠原メイである。「僕」は、貓を探しに行った際、裏の通路辺りにある
庭で笠原メイと出會った。そして、「僕」が何回か加マルタとやり取りをしている間に、「クミコ」が行方不明になった。「クミコ」とのコミュニケーションが成立しない代わりに、笠原メイはコミュニケーションの復帰に重要な役割を果たしている。高校生だが學校に通っていない笠原は、「僕」に対してアドバイスしたり、命令口調で指示を出したりすることが見られる。具體的にいえば、最初に井戸を持ち出したのはやはり笠原である。
「ねえ、ネジマキドリさん、井戸を見たくない?」
「井戸?」と僕は訊いた。井戸?「涸かれた井戸があるのよ、ここ」、彼女は言っ
た。「私、その井戸のことがわりに好きなんだけど、ネジマキドリさんは見たくない?」
「村上春樹全作品1990—2000 ④ ねじまき鳥クロニクル1」第1部、講談社、p.104。
「僕」は笠原の導きで井戸の中に降り、底に座って、暗の中で夢を見たり、思いを巡らしたりする。その間に、笠原は密かに梯子を撤去した後、再び現れて、また蓋をぴったり閉めた。「僕」は井戸の底で、彼女がってくることをずっと待つ。こんな彼女のやり方は「クミコ」の失蹤と重なるであろう。笠原メイはまさに「クミコ」の分身のような存在であることが暗示されている。井戸の蓋を閉めたのは、「僕」が「クミコ」に「コミットメント」する條件をまだ満たしていないからである。すなわち「クミコ」が不在の間に、笠原メイはコミュニケーション回復の方法を「僕」に教える。笠原は何らかの神秘的な原因で突然現れ、「僕」と「クミコ」を繋げる役目を果たす。そして笠原が「僕」から離れた後、赤阪ナツメグが再び登場し、空白を補うことになる。このようにしてコミュニケーション回復のプロセスにおける挫折と修復が何度もり返される。物語は夫婦関係で始まり、自己に內麵に深く入り、他者と井戸の底で繋がっていく。こうして、かつての戰爭と現実の日本社會が奇妙にリンクする重層的な世界が生成される。また、笠原メイを含めた女性たちは「僕」をサポートする役割をも果たしている。
ねじまき鳥さんと會わなくなってからも、私はねじまき鳥さんの顔のあざの
ことをよく考えた。突然ねじまき鳥さんの右の頬ほおに現れたあの青いあざのこと。
ねじまき鳥さんはある日穴ぐまみたいにこそこそと宮脇さんの空き屋の井戸の
中に入って、しばらくして出てきたらあのあざがついたね。今思いだしてみる
となんだかウソみたいなのだけれど、でもそれはほんとうに私の目の前で起こ
ったことなのね。そして私は最初に見たときからずっと、そのあざのことをな
にかとくべつなしるしなんじゃないかと思っていました。そこにはたぶん何か、
私にはわからない深い意味があるんだろうって。だってそうでなければ、急に
顔にあざができたりしないものね。
だからこそ私は最後に、ねじまき鳥さんのあざにキスをしてみたのです。ど
んな感じのするものだか、どんな味がするものだかどうしても知りたかったか
ら。べつに私は毎週そのへんの男の人の顔にキスしてまわっているわけではな
いのよ。そのときに私が何を感じたか、そして何が起こったか——それについ
てもまたいつかあらためてゆっくりと話したいと思う(うまく話せるかどうか
自信はないけど)。
「村上春樹全作品1990—2000 ⑤ ねじまき鳥クロニクル2」第3部、講談社、2003年7月、p.15。
新京の動物園の獣醫であったシナモンも、顔に青いあざがついている。作品の盤で、「僕」が謎の208號室で綿穀ノボルをバットで毆り倒した後、あざは消えた。あざというのは歴史の傷の顕在的な印としてのメタファーである。井戸は「歴史」に繋がる通路でもあり、「僕」は井戸の底に長く居ることによって、「歴史」の現場に迫っていく。核心に近づけば、近づくほど、あざは熱くなってくる。笠原メイがあざにキスすることは、まさに歴史のトラウマと直麵する勇敢な行為を勵ますという意味なのである。
笠原メイの手紙が屆かないことも、コミュニケーションの回復のプロセスにおける不順を象徴している。「僕」がの208號室で、ノボルらしき人をバットで毆り殺したあと、現実の世界では、ノボルが長崎での講演中に脳溢血で昏倒した。そして「僕」はコンピューターで「ねじまき鳥クロニクル#17」にアクセスして、クミコからの手紙をむ。病院に運ばれたノボルの生命維持裝置のプラグを抜くつもりだとクミコは手紙で語る。そして、貓もってくる。「僕」は家でクミコを待ちける。「僕」は笠原メイに會いに行き、そこで彼女から、彼女が五百通の手紙を「僕」に書いたことを知らされる。その手紙は、「笠原メイの視點」というタイトルで、7通に分けて丸ごと引用の形で提示されている。果たして手紙はほとんど屆かなかったはずである。作品の最後で、ようやく「クミコ」からのメッセージが屆き、笠原メイからの手紙も屆いた。
林の中を並んで歩いているときに、笠原メイは右手の手袋を取り、僕のコー
トのポケットにつっこんだ。僕は「クミコ」の仕種しぐさを思い出した。彼女は冬に
一緒に歩いているときによくそうしたものだった。寒い日にはひとつのポケッ
トを共有するのだ。僕はポケットの中で笠原メイの手を握った。
彼女の手は小さく、奧まった魂のように溫かかった。
「村上春樹全作品1990—2000 ⑤ ねじまき鳥クロニクル2」第3部、講談社、2003年7月、p.415。
「クミコ」と笠原という二つの手がかりが合流し、コミュニケーションの回復が成立したというハッピーエンドで物語は収束する。第3部では謎解きというより、者により明確で明るい末を提示する。邪悪な綿穀ノボルと戰うプロセスを通して、「僕」とクミコはようやくコミュニケーションが取れるようになった。
3.3コミュニケーションの回復と「記憶」の獲得
村上自身の言葉によれば、「ねじまき鳥クロニクル」は「デタッチメント」から「コミットメント」への作風の大きな転換點である。岡田トオルはこれまでの村上作品における受け
身タイプの男性主人公と違って、妻を探すために綿穀ノボルと戰う、というポジティブな姿勢を示している。妻を取りすために、「僕」は井戸に降りて、內麵で間宮中尉と繋がる。そして、赤阪ナツメグ·赤阪シナモンとの出會いを通して、上の世代が體験した、語り得ない新京の動物園にかかわる「記憶」が蘇ってくる。この作品は、コミュニケーション回復を求めるプロセスにおいて若い世代が「記憶」を積極的に受けぐ物語ともめる。本田さんのことを思い出す時、「僕」の心理活動が次のように描寫されている。
でも僕らは、少なくとも僕は、本田さんの話が好きだった。それは僕らにと
っては想像力の範囲を超えた話だった。多くは血なまぐさい話だったが、汚い
服を著た今にも死にそうな老人の一部始を聞いていると、なんだかまるでお
とぎ話のように現実味を失って響いた。彼らは世紀近く前に満州と外蒙古との
國境地帯で、草もまともに生えていないような一片の荒野をめぐって熾烈しれつな戰
闘をり広げたのだ。僕は本田さんの話を聞くまで、ノモンハン戰のことなん
てほとんど何も知らなかった。
「村上春樹全作品1990—2000 ④ ねじまき鳥クロニクル1」第1部、講談社、2003年7月、p.86。
コミュニケーションの回復とともに「記憶」も蘇ってくるエピソードがいくつか設定されている。第1部ではノモンハンの話を、老人世代の間宮中尉が恰好の聞き手である「僕」に語り、第3部では赤阪ナツメグにより、動物園の記憶が蘇ってくる。第1部の間宮中尉による単一な語りとは異なり、第3部第10章「動物園襲撃(あるいは要領の悪い虐殺)」における語り手は実際に體験を記憶として所有する個人に還元することができない。赤阪ナツメグとシナモンが共有する記憶が多角的視點より再現される。こうして、戰後世代=「僕」の內麵における精神的な負擔となる「満洲」の戰爭の記憶が蘇ってくる。赤阪ナツメグは引き揚げ船の上で一種の霊媒のように、半ば催眠狀態で新京動物園での襲撃を「見た」話を「僕」に語る。第10章冒頭では次のように敘述されている。
一九四五年八月のあるひどく暑い午後に、一群の兵士たちによって射殺され
ることになった虎たちについて、豹たちについて、熊たちについて、〈赤阪ナツ
メグ〉は語った。記録フィルムを真っ白なスクリーンに映寫しているみたいに、
順序正しく、ありありと彼女はその出來事を物語った。そこにはひとかけらの
曖昧さもなかった。しかしそれは彼女が実際に見なかった情景だった。ナツメ
グはそのとき佐世保に向かう運送船の甲板に立っていたし、そこで実際に目に
していたのはアメリカ海軍の潛水艦だった。
「村上春樹全作品1990—2000 ⑤ ねじまき鳥クロニクル2」第3部、講談社、2003年7月、p.92。
彼女はそのとき、日本の兵隊たちが広い動物園の中をまわりながら、人間を
襲う可能性のある動物たちを次々に射殺していく光景を見ていた。
「村上春樹全作品1990—2000 ⑤ ねじまき鳥クロニクル2」第3部、講談社、2003年7月、p.95。
引用部に明らかなようにこの語りは俯瞰的である。具體的に語られる記憶の內容は、「満洲」から引き揚げる開拓民たちの船がアメリカの潛水艦と遭遇する場麵と、動物園での射殺に至る緯である。ここでは「順序正しく」とあるように、記憶の「再現性」が強調され、語られる記憶が再構成されたことを示している。その背後には、「歴史のねじを巻く鳥」という神秘な力が動いているからである。赤阪ナツメグは満州から引き揚げたが、父親はシベリアで命を喪っており、世代間のコミュニケーションの斷絕は明らかである。本來見るはずのない「記憶」がテレパシー、あるいは霊媒のような超自然的伝達作用により再現されるということは、「記憶」に関して語りえないものの存在を逆説的に暗示しているのである。赤阪ナツメグにかかわる物語では、もう一つのコミュニケーションの切斷が設定されている。
シナモンの言語能力の喪失により、通常のオーラルコミュニケーションが不可能となる。しかし、シナモンは過去と現在を見通す能力を有する。作品では、第28、29章にあるように、「僕」はコンピューター內に発見した「ねじまき鳥クロニクル」というファイルを開き、「動物園襲撃」の編「ねじまき鳥クロニクル#8」をむ。「僕」はこの後日譚の作者がシナモンだと推測する。
この〈ねじまき鳥クロニクル#8〉がシナモンによって語られた物語であるこ
とはまず間違いがなかった。彼は〈ねじまき鳥クロニクル〉というタイトルの
ものに16の物語をコンピューターの中に書き記し、僕はたまたまその中の8
番目の物語を選択してんだわけだ。僕はさっき自分がんだ物語のおおよそ
の長さを思い浮かべ、単純に16倍してみた。決して短い話ではない。
「村上春樹全作品1990—2000 ⑤ ねじまき鳥クロニクル2」第3部、講談社、2003年7月、p.282。
そしてナツメグが息子のシナモンに「新京の動物園」について語り聞かせたことを回想する描寫がある。
私は小さなシナモンに潛水艦と動物園の話をしたの。昭和二十年の八月に私
が運送船のデッキで見たもののことを。アメリカの潛水艦が大砲をまわして私
たちの乗った船を沈めようとしているあいだに、日本の兵隊さんたちがお父さ
んの動物園の動物たちを射殺してまわったことを。私はその話を長いあいだ誰
にも話さずに一人で抱え込んできた。そしてその幻影と真実とのあいだに広が
る薄暗い迷路を黙々と彷徨っていたの。でもシナモンが生まれたときこう思っ
た。私がこれを語ることのできる相手はこの子供しかいないってね。シナモン
が言葉を理解しないうちから、私はその話を何度も何度も彼に話して聞かせた。
シナモンに向かってその一部止を小さな聲で物語っていると、それらの情景
はまるで蓋をこじ開けるように私の前に生き生きとよみがえってきた。
言葉が少しわかるようになると、シナモンはその話を何度も私にり返させ
たわ。私は百回も二百回も、あるいは五百回くらいかもしれないけど、その話
をり返すことになった。でもそれはただそのままり返したというだけじゃ
ないの。私が話すたびに、シナモンは物語の中に含まれる別の小さな物語を知
りたがった。その樹木の持つ違う枝について知りたがった。
だから私は彼に訊かれるままにその枝を辿り、そこにある話を物語った。そ
のようにして物語はどんどん大きく膨らんでいった。
それはね、私たち二人だけの手で作り上げた神話體係のようなものだったの。
「村上春樹全作品1990—2000 ⑤ ねじまき鳥クロニクル2」第3部、講談社、2003年7月、pp.156157。
赤阪ナツメグと息子のシナモンがいかに「動物園襲撃」の話を共有しているかが詳述されている。これは発達心理學でよく論じられる、幼児の啓蒙教育としての「み聞かせ」の場麵である。通常の場合、親は幼児に本や童話などをみ聞かせたり、音楽を聞かせたりする。しかし、戰時下の「動物射殺」という不確定で暴力的な記憶は、幼いナツメグの心に刻まれた、人生を貫くトラウマと言える。「満洲」の引き揚げと新京の動物園の記憶をり返し聞かせることによって、親世代が體験したトラウマ的な記憶は、子世代がそれを自分の傷としても受けぐことになる。局、ある日、シナモンは言葉を話せなくなった。それは「その物語から出てきたものが彼の舌を奪って持って行ってしまった」
「村上春樹全作品1990—2000 ⑤ ねじまき鳥クロニクル2」第3部、講談社、2003年7月、p.158。
からである。つまり、子供のときに親から受けいだトラウマ的な記憶が、身體に悪い影響を與えたのである。さらに、第3部第28章「ねじまき鳥クロニクル#8(あるいは二度目の要領の悪い虐殺)」は、全體がファイルの引用として提示される。「僕」はコンピューター內に見出したファイル「ねじまき鳥クロニクル#8」を開く。それは「動物園襲撃」という挿話の稿であり、8人の兵士に拘引され動物園內で殺害された4人の中國人について記述されていた。中尉は彼らのうち3人を銃剣で殺し、北海道出身の若い兵士に命じて、殘る1人をバットで撲殺させた。その時、若い兵士はねじまき鳥の鳴く聲を聴く。人間の奧底に潛んでいる暴力性が具現化された形で提示される。「僕」は、記憶にかかわるシナモンの內麵の動きについて、次のように推測している。
おそらく物語のどの部分が事実でどの部分が事実ではないということは、シ
ナモンにとってはそれほど重要な問題ではなかったはずだ。彼にとって重要な
ことは、彼の祖父がそこで何をしたかではなくて、何をしたはずかなのだ。そ
して彼がその話を有効に物語るとき、彼は同時にそれを知ることになる。
「村上春樹全作品1990—2000 ⑤ ねじまき鳥クロニクル2」第3部、講談社、2003年7月、p.284。
したがって、「動物園襲撃」の物語は、まずナツメグが語り、シナモンがそれを聴き取ることによって、二人に共有された記憶なのである。シナモンが、母親の述懐に自身の想像を加味して記憶を再構成していく。このように獣醫(祖父)——ナツメグ(母親)——シナモン(息子)という三世代のコミュニケーション的記憶の中斷と回復という構図が明らかになってくる。コミュニケーション回復へ至る過程の「入り口」は井戸となり、井戸の底=無意識世界において超現実的に過去と現在は連している。同時に、「彼の祖父がそこで何をしたかではなくて、何をしたはずかなのだ」が示してくれるように、世代間のコミュニケーションの切斷という設定は、物語りえないもの、語り切れないものの存在を示唆し、それに伴う記憶の変容や不確定性が如実に提示されている。第1部と第2部をさらに展開させた第3部は、過去についての想起する行為を前麵化させ、「僕」の物語やナツメグ、シナモンの物語と同じ位相でテクストを構成している。それらを見通す能力を持つシナモンが存在するからこそ、この物語の全體は初めてひとつの年代記として語ることが出來るようになる。
そして「僕」は、一つ上の世代に當たる間宮中尉との「コミットメント」を、間宮中尉による聞かせの行為と聞く行為という記憶のシェアにより、成し遂げる。間宮中尉が體験した九死一生のノモンハン體験は、殘忍な皮剝ぎの目撃によるショックも含めて、心的外傷ストレス障害となる。戰後、間宮中尉は本田さんと何も語らないままでその記憶を共有してきた。間宮中尉は、自分の戰後の人生はまるで「抜け殻」のようなものだと感じた。良い聞き手である「僕」は、赤阪ナツメグと間宮中尉に耳を傾けて、彼らのトラウマ的體験を聞くことによって、わずかに相手の傷を愈やすという役割を果たした。こうして、「僕」と間宮中尉や赤阪ナツメグ等の「コミットメント」が成し遂げられ、コミュニケーションの回復ができたわけである。
び
「ねじまき鳥クロニクル」からは、種々の暴力によるトラウマを克服するために、コミュニケーションの回復を図る物語をみ取ることができる。「僕」を含む複數の語り手によるナラティブが交錯し、複數の視點から「記憶」が語られる。その中では暴力の遍在性が強調され、作中の「歴史」はまさに、反復する暴力の年代記(クロニクル)として設定されている。皮剝ぎ、動物の射殺、そして4人の中國人が銃剣とバットで殺害された事件、これらのかつての戰爭という暴力と、現代社會における性暴力、政治的な暴力とを合わせて、暴力の編年史が構成されているのである。作中で、「僕」と間宮中尉はそれぞれ井戸の底に降り、かつてのモンゴル砂漠と「現在」の東京という二つの異なる空間で類似した體験をする。井イ戸ドに降りる行為は無意識領域に入る通路の隠喩であり、戰時下のノモンハンと現代の東京は、井戸により繋がっているのである。作中の1980年代の平穏な社會の表層下に、暴力の衝動が潛んでおり、その暴力は綿穀ノボルという姿で具現化されている。綿穀ノボルによる性暴力は、他者の「記憶」を損なう行為の隠喩である。作者の自作言及では、アメリカ體験と地下鉄サリン事件は、現代社會における暴力を考え直す契機を與えてくれた
「解題「ねじまき鳥クロニクル」2」「村上春樹全作品1990—2000 ⑤ ねじまき鳥クロニクル2」第3部、pp.421434。
。村上は、暴力の根源を探るために、暗喩性に富む物語群を作りあげ、暴力という人類の負の遺産といかに対応するか、と問いかけている。本作でクローズアップされた「満洲記憶」は、このような暴力の表象なのである。
そして、個人の記憶、世代間にわたる個人の戰爭記憶が描寫されたと同時に、集合的記憶やアイデンティティーについての強い意識が窺える。「ねじまき鳥クロニクル」を発表した後、村上春樹はアメリカで受けたインタビューで次のように発言している。
(前略)私はその原因を知らない。それは私の父の話だからかもしれない。私の
父は1940年代に戰爭を參加した世代に屬します。私が子供だったとき、父は私
にストーリーを語ったことがあります。それほど多くはないが、それは私にた
くさんのことを意味します。そのころ父親の世代に何があったかを知りたかっ
たんです。その記憶は、一種の遺産みたいなものですから。でもこの本で書い
たことは僕の創作です——最初から最後までフィクションですよ。僕が創作し
ました。
Miller, Laura. “The Salon Interview:Haruki Murakami.” Salon 17 Dec.1997.web.14 Dec.2014.拙訳。原文:...I dont know why. Because its my fathers story, I guess. My father belongs to the generation that fought the war in the 1940s. When I was a kid my father told me stories—not so many, but it meant a lot to me. I wanted to know what happened then, to my fathers generation. Its a kind of inheritance, the memory of it. What I wrote in this book, though, I made up—its a fiction, from beginning to end. I just made it up.
(文は馮)
引用部から明らかなように、「世代」·「記憶」·「フィクション」という三つのキーワードは、「ねじまき鳥クロニクル」解のための補助としてきわめて有効である。「ねじまき鳥クロニクル」においては、暴力の遺産として植民地や戰爭の「記憶」が濃密に語られており、子世代が積極的に舊世代からその記憶を引きごうとするのがこの作品の重要なテーマの一つといえる。舊世代=間宮中尉や獣醫は歴史の記憶を背負っており、子世代としての「僕」は妻を探す途中で井戸に降り、奇妙な體験を通してノモンハンや「新京動物園」の記憶を獲得し深化させていく。さらに獣醫——赤阪ナツメグ——シナモンのように三世代にわたる「新京の動物園」の記憶の承、或いは記憶の正確な承の不可能性が提示されている。「僕」が、シナモンの書いたと思しきファイルをんだ後で、シナモンにとって重要なことは彼の祖父が「そこで何をしたかではなく、何をしたはずかなのだ」ということだと気付くように、三世代にわたる記憶に関して、想起と忘卻の力學による変容が提示されている。コミュニケーション回復の物語の中で、「記憶」への眼差しが強く表れている。この小説で取り上げた、戰爭という大きな暴力の根源がどこにあるのかという問いかけは、後に「アンダーグラウンド」、「束された場所で」でする。長編「1Q84」における天吾の父子関係にも、「記憶」に執著するモチーフが引きがれている。アライダ·アスマンは當事者が參與するコミュニケーションが介在する記憶から文化的記憶への移行について、次のように述べている。
われわれが今日かかわっているのは、記憶の問題の自己止揚ではなく、逆に
その先鋭化なのだ。なぜなら、時代の證人たちの験記憶が將來失われてしま
うことを防ぐためには、それは後世の文化的記憶へ移し変えられなくてはなら
ないからだ。そうして生きた記憶は、メディアによって支えられた記憶に道を
譲る。
アライダ·アスマン著、安川晴基「想起の空間——文化的記憶の形態と変遷」水聲社、2007年、p.28。
「ノモンハンの話」と「動物園襲撃」のような虛と実の混在する物語は、近代日本における歴史の一局麵を忠実に再現することを作者が目指したものではない。記憶の保存裝置として、「ねじまき鳥クロニクル」に組み込まれたモチーフは、想起の可能性や力を者に示した。歴史が、感受性に富む文芸作品の中で「ねじまき鳥年代記」に寓意化されたことによって、記憶の喚起、ひいては構築が遂げられている。村上自身が語るように「日本における個人を追求していくと、歴史に行くしかない」
村上春樹、河合隼雄「村上春樹、河合隼雄に會いにいく」岩波書店、1996年、pp.4546。
のだろう。現在の日本人のアイデンティティーへの追究には、他人とのコミュニケーションの回復を通して、かつての戰爭の記憶を獲得することが不可欠だと認識されている。
第四章「1Q84」における「満洲」體験
第四章「1Q84」における
「満洲」體験
はじめに
本章では、村上春樹の文學について、主に「1Q84」を中心に、偽満についての記憶に焦點を當て、他の植民者と被植民者雙方の験談や證言などと比較しつつ考察していく。無論、「1Q84」における「満洲」開拓や引き揚げの描寫は常に小説の一部であり、しかも隠喩性の高い作品なので、記號となる中國や「満洲」開拓は他の證言や歴史研究の論述とは明らかに違いがある。したがって、その小説の芸術性とフィクション性を意識しながら、「1Q84」における植民地の記憶の特徴を明らかにすることにしたい。まず、歴史研究の成果を參照し、「満蒙開拓團」の歴史を十分に把握することが重要である。「1Q84」において、「満洲」開拓の記憶がいかに語られたかを究明するために、その語られた內容そのものに直接注目し、他の態の「記憶」との関係性の中で、「1Q84」における植民地の記憶の特徴を摑み、作中での意味、現在の社會に與える意味を分析する。分析にあたり、具體的な體験談や證言に対しては、出來事の時間、記述の時間、〈いま〉という三つの時間の區別を重要視する。また、小説としての「1Q84」に対しては、作中の現在と書行為の現在との関連性も無視できない。次章では作品のモチーフに配慮しつつ、「記憶」と物語との相互関係を検證し、作品全體における「記憶」の役割を解析する。それを前提として、村上春樹による戰爭や植民地の「記憶」の語りの、現在(2010年前後)というコンテクスト下での機能を重要視する。このような作業を通して、「文化的記憶」
安川晴基は、ヤン·アスマンが1980年代末に提唱した「文化的記憶」というコンセプトを次のように括している。「文化的記憶という概念が要しているのは、各々の社會、そして各々の時代に固有の、再利用されるテクスト、イメージ、儀禮の體である。それらを「保つ」ことで、各々の時代の各々社會は、自己の像を固定させて伝える。つまり主として過去に関する(しかしそれだけではない)、集團によって共有された知識のことであり、その知識に依拠して集團は自らの一と獨自性を意識する」安川晴基「文化的記憶のコンセプトについて——者あとがきに代えて」、アライダ·アスマン著、安川晴基「想起の空間——文化的記憶の形態と変遷」水聲社、2007年、p.564。
の形成や変遷のプロセスにおいて、村上文學はいかなる役割を果たしているか、という問題の考究を意図している。
「1Q84」の第1部(BOOK1)と第2部(BOOK2)は2009年5月に新潮社から発売され、その後、第3部(BOOK3)が2010年4月に発売された。BOOK1とBOOK2は2009年11月に第63回「毎日出版文化賞文學·芸術部門」を受賞した。簡體字中國語版は2010年5月(BOOK1)、2010年6月(BOOK2)、2011年1月(BOOK3)と順次に出版された。2013年、英版は國際IMPACダブリン文學賞に候補として推薦された。世界各地での影響はすばやく広がっている。文庫本は2012年6月、BOOK1、BOOK2、BOOK3をそれぞれ前編と後編とに分冊する形で、全6冊として新潮文庫より出版された。
本章では「1Q84」における植民地の記憶の表象を直接分析した上で、特に父子関係と「満洲」開拓の記憶を物語內容のなかで捉える。アライダ·アスマンは「芸術は、もはや思い出さないということを、文化に思い出させる」
アライダ·アスマン著、安川晴基「想起の空間——文化的記憶の形態と変遷」水聲社、2007年、p.440。
と述べたが、村上春樹文學は「想起」と「忘卻」のはざまでいかなる相を呈しているかを詳しく検討してみよう。「1Q84」の作中の世界は、1984年から微妙にずれた「1Q84」年の日本であり、「ねじまき鳥クロニクル」の時代設定も、1984年の日本になっている。本論は「1Q84」を「ねじまき鳥クロニクル」の延長上にある作品だと認識した上で、分析を進めていく。
1. 青豆とタマルに託される「記憶」——満鉄と樺太
「1Q84」という作品は、1984年から「1Q84」年への平行世界のスライドが提示され、現実の世界と想像の世界が混淆し合う構造を持つ。「1Q84」における戰爭や植民地の記憶は遠景に過ぎず、この小説の時代設定である1980年代の記憶の前景化が顕著である。作品の中では、植民地や戰爭に関する記憶は、験者ではない登場人物によって語られたり、筋の不在な語り手の記述により再現されたりしている。その歴史の「記憶」は作中の現在とコントラストを成している。本論では、まず、登場人物のうち青豆、タマルと天吾の父親にむ「記憶」を析出する。
1.1青豆——弱者の代弁者——歴史の殘像
青豆とタマルの描寫には、歴史の記憶が間接的に敘述されている。青豆はこの物語を牽引する能動的な主人公である。青豆の両親は「證人會」の信者であった。彼女自身も幼少期には毎週日曜日に母に連れられて家庭訪問による布教活動に従事しており、信者であることを強いられて育てられた。だが、10歳の時に棄教を宣言し、家族との交流が絕える。青豆は歴史関連の書物を愛し、歴史の試験では常にクラスで最高點を取った。青豆は家庭內暴力を受けた女性たちに味方し、被害者のために復を代行する殺し屋へと成長する。暗殺を済ませた後、緊張する神を
鎮めるために、ミュージックバーで酒を飲みつつ、歴史に関する本をむ。
ショルダーバッグから本を出してんだ。一九三〇年代の満州鉄道につい
ての本だ。満州鉄道(南満州鉄道株式會社)は日露戰爭がした翌年、ロシ
アから鉄道路とその権益を譲渡されるかたちで誕生し、急速にその規模を
拡大していった。大日本帝國の中國侵略の尖兵となり、一九四五年にソビエ
ト軍によって解體された。一九四一年に獨ソ戰が開始されるまで、この鉄道
とシベリア鉄道を乗りいで、下関からパリまで十三日間で行くことができた。
ビジネス·スーツを著て、大きなショルダーバッグを隣りに置き、満州鉄
道についての本(ハードカバー)を熱心にんでいれば、ホテルのバーで若い
女が一人で酒を飲んでいても、客選びをしている高級娼婦と間違えられるこ
とはあるまい、と青豆は思う。しかし本物の高級娼婦が一般的にどんなかっ
こうをしているのか、青豆にもよくわからない。もし彼女が仮に裕福なビジ
ネスマンを相手にする娼婦であったなら、相手を緊張させないためにも、バ
ーから追い出されないためにも、たぶん娼婦には見えないように努めるだろ
う。
たとえばジュンコ·シマダのビジネス·スーツを著て、白いブラウスを著
て、化粧は控えめにして、実務的な大振りのショルダーバッグを持って、満
州鉄道についての本を開いているとか。
それに考えてみれば彼女が今やっているのは、客待ちの娼婦と実質的にさ
して変わりないことなのだ。
村上春樹「1Q84 BOOK1」新潮社、2009年5月、p.103。以後、引用にあたり、「1Q84 BOOK1」「1Q84 BOOK2」「1Q84 BOOK3」を、それぞれBOOK1、BOOK2、BOOK3と略記する。
この部分の「満州鉄道」の歴史に関する敘述において、さりげなく歴史的情報を補足するスタンスを語り手は取っているように感じられる。「満鉄」が「侵略の先兵」と呼ばれること、及び主人公の弱者の代弁者という位置づけに、作品全體の基調、歴史観が反映されていると考えられる。ミュージックバーやモダンな女性と「満鉄の歴史」とは、如何にもコントラストを成している異質な時空間を感じさせるが、歴史的暴力、加害の記憶を通して、作中の現在である「1Q84年」における暴力が際立たせられている。満鉄および舊ソビエト連邦との戰爭は、また「ねじまき鳥クロニクル」を連想させる。「ねじまき鳥クロニクル」もまたノモンハン事件ならびに新京についての歴史的要素を取りいれた作品だからである。ここでも相変わらず、「満洲」は村上に愛用される記號として扱われている。
また、青豆という登場人物には、作者自身が投影されていると考えられる。村上は2010年のインタビューで、かつての歴史少年であった験を吐露し、「中央公論社の「世界の歴史」なんかおもしろくて、中學から高校にかけて、全巻何度もり返しみました」と述べている。
村上春樹「村上春樹ロングインタビュー」「考える人」(NO.33)、新潮社、2010年、p.25。
また、村上はノモンハンと出會った緯を次のように語っている。
ずっと昔、小學生の頃に歴史の本の中で、ノモンハン戰爭の寫真を目にし
たことがあった。今でもはっきりと覚えているけど、そこには奇妙にずんぐ
りとした古っぽい戰車と、これもまた奇妙にずんぐりとした古っぽい飛行機
の寫真が載っていた。そして一九三九年の夏に、満州駐屯の日本軍とソビエ
ト·モンゴル人民共和國(外モンゴル)連合軍とのあいだに、満州國國境
をめぐる激しい戰闘があり、日本軍が大きな被害を受けて撃退されたという
短い記述があった。
村上春樹「辺境·近境」新潮社、1998年、p.165。
ここから、歴史の本を愛した験が、村上の「記憶」に大きな影響を與えていることは明らかである。戰後生まれの村上にとって、アジア·太平洋戰爭や帝國——植民地に関する記憶は、験に即して感受されるのではなく、主に學ぶという姿勢によって得られた情報である。したがって、「記憶」の時代である現在において、「體験」や「證言」と異なる「記憶」の語りかたがもとめられ、「記憶」の再構築もされつつある。
そして、あゆみという女性警察官が登場する。彼女は青豆とバーで出會い、親しい友人となる。青豆にとって、あゆみは大環以來、初めて自然な好意を感じた相手である。2人は一緒に、バーで男を物色するようになる。青豆とあゆみの間に、女性に暴力を振るった男性についての會話がなされる。
「覚えてない」
「あいつらはね、忘れることができる」とあゆみは言った。「でもこっちは忘れない」
「もちろん」と青豆は言った。
「歴史上の大量虐殺と同じだよ」
「やった方は適當な理屈をつけて行為を合理化できるし、忘れてもしまえ
る。見たくないものから目を背けることもできる。でもやられた方は忘れら
れない。目も背けられない。記憶は親から子へと受けがれる。世界という
のはね、青豆さん、一つの記憶とその反対側の記憶との果てしない闘いなん
だよ」
BOOK1、p.525。
引用部には、「歴史」の記憶の承、加害と被害の対立関係に対する強い意識が、登場人物の青豆とあゆみを通して反映されている。青豆の親友であった大環は夫のDVに耐えられずに自殺した。そしてあゆみもホテルで殺害された。したがって、青豆には弱者の代弁者としての性格が付與される。女性が受けた性暴力と歴史上の大きな暴力とは、相応して、共通するように捉えられている。
1.2タマルと樺太——朝鮮民族という他者の記憶
サブキャラクターであるタマルにも植民地の記憶が重ねられている。タマルは、戰の前年に樺太で生まれた。両親は労働者として徴用された朝鮮人であり、戰後、渡日が禁じられることとなる。1歳のタマルは日本人帰國者にされるかたちで北海道に渡り、両親と別れる。その後、カトリック係の施設に入れられ、形ばかりの養子組により日本國籍を取得する。元來は「樸」という名字だったという以外に、自らのルーツが失われている。それは個人的な験として語られるが、植民地開拓の集團的記憶が仮されていると言えよう。同時に、親子間における記憶の斷絕も描かれている。タマルによる身の上話は次のように語られる。
「さよならをいうのはあまり好きじゃない」とタマルは言った。「僕は両
親にさよならを言う機會さえ持てなかった」
「亡くなったの?」
「生きているか死んでいるかも知らない。俺はサハリンで戰の前の年に
生まれた。サハリン南部は日本の領土になって當時樺太と呼ばれていたが、
1945年の夏にソビエト軍に占領されて、両親は捕虜になった。父親は港灣施
設で働いていたらしい。日本人の民間人の大半はほどなく本國に送還された
が、俺の両親は労働者として送られてきた朝鮮人だったから、日本にはし
てもらえなかった。日本政府は引き取りを拒否した。戰とともに朝鮮半島
出身者はもう大日本帝國臣民ではなくなったという理由で。ひどい話だ。親
切心ってものがないじゃないか。希望すれば北朝鮮には行けたが、南には
してもらえなかった。ソビエトは當時國の存在を認めていなかったからな。
俺の両親は釜山近郊の漁村の出身で北に行く気はなかった。親戚も知り合い
も北には一人もいない。まだ、赤ん坊だった俺は、日本人の帰國者の手に
されて、北海道に渡った。當時のサハリンの食糧事情は最悪に近いものだっ
たし、ソビエト軍の捕虜の扱いもひどかった。両親には俺のほかに何人か小
さな子供がいたし、俺をそこで育てることはむずかしそうだった。
先に一人で北海道に帰しておいて、あとで再會できると思ったんだろう。
あるいは體よく厄介扱いをしたかっただけかもしれん。詳しい事情はわから
ん。いずれにせよ再會することはなかった。
両親はたぶん今でもサハリンに殘っているはずだ。まだ死んでいなかった
らということだが」
BOOK2、p.31。
村上春樹文學に「朝鮮人」は希に登場するが、タマルには、忘卻される恐れのある少數者の記憶がされている。タマルの獨白は、戰爭と植民地の時代における被害者の代弁ともなる。すなわち、朝鮮支配と戰後の渡不能という被害である。このような形で、帝國——植民地の構図が、自己——他者の関係性へ投影させられている。タマルは金持ちの老婦人の指示のもと、青豆と協力して、社會的暴力の被害者たる女性の怨嗟を肩代わりする。青豆とタマルの共通點は、二人とも弱者の立場に立ち、強者とされるリトル·ピープルや教團のリーダーと戰おうとしていることである。
このような弱者への眼差しについて、村上自身はエルサレム賞を受賞した際に、「高くて、固い壁があり、それにぶつかって壊れる卵があるとしたら、私は常に卵側に立つ」
大胡田若葉、早川誓子編·翻協力「心をゆさぶる平和へのメッセージ——なぜ、村上春樹はエルサレム賞を受賞したのか」ゴマブックス、2009年5月、pp.5053。
と語っている。青豆とタマルに対する描寫からは、作者が「卵」=弱者の立場にシンパシーを寄せており、「壁」と表現される強者に挑むという図式がみ取れる。
2. 父の「満洲」體験——證言、遅子建「偽滿洲國」との対比
まず、本作における「満洲」體験に関する敘述を取り出してみよう。主人公である天吾の父が初めて登場するのは、天吾の不幸な子供時代が語られるシーンにおいてである。そこで語り手は、父親の「満州國」時代から、戰後にNHK集金人になるまでの閲歴を詳しく説明し、この個人的體験談を通して、その背景に潛む大きな歴史を浮かびあがらせている。以下、父の「満洲」體験を、「満洲への入植」、「引き揚げ」、「戰後の語り部」という三つの部分に分けて分析する。
2.1「満洲」への入植
「満洲」入りは次のように記述される。
天吾の父親は戰の年に、満州から無一文で引き揚げてきた。東北の農家
の三男に生まれ、同郷の仲間たちとともに満蒙開拓團に入り満州に渡った。
満州は王道楽土で、土地は広く肥沃で、そこに行けば豊かな暮らしを送れる
という政府の宣伝を鵜呑みにしたわけではない。王道楽土なんてものがどこ
にもないことくらい、最初からわかっていた。ただ彼らは貧しく、飢えてい
た。田舎に留まっていても餓死寸前の暮らししかできなかったし、世の中は
ひどい不景気で失業者が溢れていた。都會に出たところでまともな仕事が見
つかるあてもない。となれば満州に渡るくらいしか生き延びる道はなかった。
有事の際は銃をとれる開拓農民として基礎訓練を受け、満州の農業事情につ
いてのまにあわせの知識を與えられ、萬歳三唱に送られて故郷をあとにし、
大連から汽車で満蒙國境近くに連れていかれた。そこで耕地と農具と小銃を
與えられ、仲間たちとともに農業を営んだ。石ころだらけのやせた土地で、
冬には何もかもが凍り付いた。食べるものがないので野犬まで食べた。それ
でも最初の數年は政府からの援助もあり、なんとかそこで生き延びることは
できた。
BOOK1、pp.169170。
ここでの「満洲」入りの體験についての記述には、そのコンパクトさにもかかわらず、多くの情報が含まれている。天吾の父親は東北地方の貧農として生まれ、満蒙開拓團に參加する。歴史の実相を參照すれば、父親の體験は、まずその時代においてごく一般的な開拓民の個人的な體験と重なるところがある。天吾の父をはじめとする無數の開拓民の験の集積によって、開拓民の全體像は形成されている。このようなきわめて私的な體験さえも、個人が屬するさまざまな集團の內部におけるコミュニケーションや関係性に影響しけることで、記憶は再構築され、固定され、維持される。したがって、ここで共有された記憶は、ある種の集合的記憶として描かれたものと考えられるだろう。村上は「ロングインタビュー」にて、集合的記憶に関して次のように語っている。
僕の言う「歴史」は、たんなる過去の事実の羅列でも引用でもなく、一種
の集合的記憶としての歴史です。たとえば、ノモンハンでの間宮中尉の強烈
な験も、ただの老人の思い出話ではなく、僕の血肉となっているものであ
り、現在に直接の作用を及ぼしているものです。そこが大事なんです。
村上春樹、前掲書「村上春樹ロングインタビュー」、p.26。
この「ロングインタビュー」で、村上は自ら作品中における「歴史」描出の方法に対する認識を吐露している。すなわち、「1Q84」においても作者は意識的に「集合的記憶」を作品に導入していると考えられる。そして、天吾の父親が無事に日本にれたことは、幸運な體験とも言える。
「満洲事変」(1931年)以後、日本は計畫的に中國東北へ移民を送った。その移民のプロセスは、三つの段階に分けられる。第一段階は1932年から1936年までで、組織的·計畫的に中國東北への試験移民をおこなった時期である。この間、武裝してやってきた農業移民は治安維持の役割を擔い、関東軍による東北人民の抗日闘爭に対する鎮圧を助けた。そのため、この時期は武裝移民の段階とも言われる。
第二段階は1937年以後の大規模移民の時期である。関東軍によってなされた「20年百萬戸移民計畫」(1937年—1956年)という提案は広田內閣の七大國策の一つともなった。「満洲國」政府もまた日本人移民政策について、最的には日本人移民100萬戸計500萬人は中國東北人口の1割を占めるようになるだろうと推定した。このように日本は數百萬の移民によって中國東北に「大和民族」を指導的な中核とする植民秩序をつくり上げようとしたのだ。當時、日本の拓務省は、それを次のように明かしている。「現在満洲國の人口は概ね三千萬であるが二十年後に五千萬に達するであらう。その時その一割五百萬人の日本內地人を満洲に植えつけ、民族協和の中核たらしむれば、わが対満政策の目的は自ら達せられる。」
満洲開拓史刊行會編「満洲開拓史」全國拓友協議會、1966年7月、p.182。
その目的は、つまり中國東北を、事実上、日本領土の一部にすることであった。
第三段階は1941年以後の移民が衰微してきた時期である。太平洋戰爭が勃発すると、日本國內の青壯年労働者の中には応召されて軍隊に入る者が増え、また日本國內の軍事工業も拡大して農村にほとんど労働力の餘剰がなくなってきたため、移民の源泉が枯渇しはじめたのだ。その他、関東軍が南方戰に動員されるのに伴って、移民團員で応召されて軍隊に入るものが急速に増加した。日本の移民政策は事実上すでに崩壊しはじめていたのだ。
孫武「序文」「中國農民が證す「満洲開拓」の真相」小學館、2007年7月、pp.45。
天吾の父親が「満洲」に渡った具體的時期ははっきりとは述べられていないが、「有事の際は銃をとれる開拓農民として基礎訓練を受け」からみれば、1932—1936年の武裝の段階と重なる設定だと推定できる。
ここで、試みに「満洲」開拓の日本人體験者の「證言」や験談を取り上げて、「1Q84」の語り手により語られた父親の「満洲」體験と比較してみよう。「再會~35年目の大陸行~」(以下、「再會」
と略記する
)はNHKによって製作されたドキュメンタリーで、1980年9月19日に放送された。その中では元「満洲開拓青少年義勇軍」の阿部金造の證言が取り上げられている。阿部は、宮城県の農家の次男に生まれ、15歳のときに、「鍬と鉄砲を肩」に、300人の仲間とともに「満洲」に渡った。彼はかつての開拓團の跡地である永吉県烏拉街人民公社を訪れ、戰時の思い出と戰後の認識を次のように語った。
な~にも、政府から認められないですよ。ただ、貧乏百姓の、貧乏職人の
子供が、満洲に行ってしんじまったと。それだけじゃないかと思うですよ。
私が。ひがむかどうかはわかりませんけど、未だに政府なんて、なに一つお
前たちご苦労だって言ってくれないですからね。(泣き.顔伏せる)(一時語
り中斷)せめてもね。それだけ認めてもいいだけれども、そうすれば、宅友
會で集まっても、もっと朗らかな話ができるだとおもうですけれどもね。あ
まり過去に觸れたがらないですよ。思い出話はするですけどね。
Q:やっぱり、日陰もの的なあれになっちゃったわけですね。そうですね
(沈黙)。義勇隊だけで、2萬5、6千死んでいますからね。一般開拓團では
8萬以上でしょう。全部入れれば、開拓関係だけで。それで、戰後になって
からの評価というのは、侵略者の手先だったと、それだ、それは少しむごい
ですよ。
ちょうび(?(ママ))、恐ろしいですよ。白が黒になっちまったのですか
ら。
気が付いた時には、自分達が悪人ですからね。35年前にぃ~、は~
南誠「「中國殘留日本人」の語られ方」——記憶·表象するテレビドキュメンタリー」、山本有造編「満洲——記憶と歴史」京都大學學術出版會、2007年、pp.269271。
この證言には政府に対する不信感が込められ、「加害者」と「被害者」の重層性が認識されている。「1Q84」において、明らかにテクストのなかの天吾の父親の自己認識は、自分はいろいろ苦労したが、被害者でもないし、加害者でもない、というもので、ただぼんやりとした、自慢すべき験だと認識している。例えば、「世の中はひどい不景気で失業者が溢れていた。都會に出たところでまともな仕事が見つかるあてもない。となれば満州に渡るくらいしか生き延びる道はなかった」
BOOK1、p.169。
と語られるように、父親にとって身過ぎ世過ぎのため「満洲」に渡るのは止むを得ない選択であると認識されており、彼は歴史の渦巻きに流されてしまった一般庶民としての無力感に襲われている。しかし、子世代の天吾が父親とのコミュニケーションにより受動的に受けいだ「満洲」の記憶はどんな形になったのかは、テクストの中では明確にされていない。
そして、「王道楽土なんてものがどこにもないことくらい、最初からわかっていた」
同書、同頁。
と語る程度には、天吾の父親は、國家イデオロギー宣伝の背後の現実を見通していたが、それが戰後、戰時中の國家に対する憎悪として表出されることはない。それは先述の阿部金造による國家に騙されたことへの怒りに満ちた證言とは対照的である。天吾の父親は戰時中の國家に対しても、戰後の國家に対しても、不満を表す言葉は一つも発することなく、ただ生きていくために勤勉に働いているだけだ。「1Q84」における「満洲」の記憶の射程は、戰後日本社會において公的に歴史化された「満洲」の記憶とはかけ離れたものがある。植民地での支配——被支配というマクロな構造的狀況への自覚がない父親像が設定されている。「満洲」移民験者による集合的記憶は、植民支配による「被害」と「加害」、そして「はかない郷愁」というノスタルジアとしての性質を有する重層的なものである。無論、天吾の父親による「満洲」の記憶は、「満洲」移民體験者による集合的記憶に重なる部分があるというのは、明らかである。
さらに、中國人作家遅子建の小説「偽滿洲國」
遅子建「偽滿洲國」作家出版社、2000年。
を例として取り上げてみよう。民間人の立場で語られた「満洲」記憶はステレオタイプな記憶と比べて異色であり、大きな歴史事件が編年體で語られている。本作には羽田少尉と開拓團團員が登場し、両者の會話が次のように描寫されている。
【中國語原文】
羽田少尉是第二次護送移民開拓團成員去北滿東部了。他感覺自己就像個農場主,在把他的一大群羊往一個目的地趕。兩批被保護的成員人數基本一致,都是接近五百人。不同的是上一批移民是深秋,沿途是蒼涼的景象,而且由於不斷受到抗日武裝的襲擊,他們整日提心吊膽,船當時靠了佳木斯港的碼頭卻不敢讓開拓團成員上岸,隻能在船上誠惶誠恐地過夜,弄得成員們心情很壞,他們有無數問題問羽田:“滿洲國的人跟我們不是一家人嗎,他們為什麼不讓我們上岸?”羽田想說:“你們來種他們種著的土地,他們當然不會高興了。”可羽田不能這麼說。(略)
羽田這次護衛的移民是七月八日從東京出發的,經過一星期之久的海上漂泊和跋涉,他們個個顯得麵目憔悴。一位來自北海道的移民後悔不迭地說,他以為到滿洲來一路會受到老百姓的歡迎。因為他們是來幫助他們建設新國家的。沒料到沿途的群眾對他們十分不友好,他在街上看見一個中國小女孩長得非常頑皮可愛,就把手中提著的一個小木偶送給他。女孩的媽媽堅決地拒絕了,抱著孩子飛快地走掉,好像那木偶裏藏著炸彈似的。這位漁民很傷感地說,早知如此,不如在家繼續當漁民了。
遅子建「偽滿洲國」人民文學出版社、2005年、pp.7273。
【文】
羽田少尉が開拓團團員を護衛して北満の東部に行くのは、これが二回目になる。自分がファーマーみたいに、羊の大群を一つの目的地に追い立てている。二回とも團員數は500人近いという大きな團體だ。時期が違うだけだった。前回は秋の後半に入る頃だったので、道沿いの風景は見渡すかぎり荒涼としていた。そのうえ、抗日部隊に絕え間なく襲撃されたので、毎日怯えながら移動した。船が佳木斯港に著いたにもかかわらず、銃弾に撃たれることを恐れて、團員たちはなかなか船から上陸できなかった。局船の上で一晩過ごし、皆が抑えきれない不満と疑問を羽田にぶつけてきた。「満人はわれわれと同じ家族だと言ってたじゃないか。なぜ船から降ろしてくれないんだ。」「皆さんが彼らの土地を耕すために來たんだから、彼らが嬉しく思わないのは、當然でしょう。」羽田はそう答えたかったが、口には出せなかった。(中略)
今回、羽田が護衛に當たった移民は、7月8日に東京を出発し、一週間の苦労した船旅をて、やっと満洲に辿り著いたので、皆はやつれた顔をした。北海道から來た一人の團員は悔しげに言った、「満洲という新國家建設を助けるために來たんだから、熱烈歓迎されると思っていたのに、とんでもない。街で可愛い女の子に會ったから持っていた人形の玩具をあげようとしたら、母親が出て來て、まるで爆弾でも仕掛けた物みたいに拒絕され、挙句には子
供を抱えて逃げて行ってしまったよ」。さらに「こんなことが分かっていたら、家で漁をけていた方がましだった」と哀しそうに付け加えた。(文は馮、
下は馮)
遅子建が描いた「満洲」の記憶は、小さな人物の運命に目を向けさせることで、中國東北庶民の日常の背後に「抗日」という伏を施している。々な小人物のミクロな物語が、大きな歴史の物語を構成する。その中には日本人の登場人物もおり、開拓民が被害者と加害者の両義性を重ねる「人間」として取り上げられる。ヒューマニズムの立場で、他者=日本人の人間性を理解しようとする遅子建のポジションが見られる。「1Q84」での天吾の父親とは対照的に、この北海道出身の開拓民は國家イデオロギー宣伝を信じていたが、実際に「満洲」の大地に辿りついた後、「悔しさ」を表すことになる。それに対して、天吾の父親は、ただ事後的な反省もなく空虛を抱えたまま生きている人物像である。
2.2「引き揚げ」
「1Q84」のテクストでは、父親の引き揚げの體験は以下のように敘述されている。
一九四五年八月、ようやく生活が落ちつきを見せ始めた頃、ソビエト軍が
中立條を破棄し、満州國に全麵的に侵攻した。歐州戰をさせたソビ
エト軍は、大量の兵力をシベリア鉄道で極東に移動し、國境を越えるため
の配備を著々と整えていた。父親はちょっとしたで親しくなったある役人
からそのような切迫した情勢をこっそり知らされ、ソビエト軍の侵攻を予期
していた。弱體化した関東軍はとても持ちこたえられそうにないから、そう
なったら身ひとつで逃げ出せるように準備をしておけと、その役人は彼に耳
打ちしてくれた。逃げ足は速ければ速いほどいい、と。だからソ連軍が國境
を破ったらしいというニュースを耳にするや否や、用意しておいた馬で駅に
駆けつけ、大連に向かう最後から二番目の汽車に乗り込んだ。仲間のうちで
その年のうちに無事に日本に帰り著けたのは彼一人だけだった。
BOOK1、pp.169170。
この「満洲」體験は、苦労した長い旅だったが、ラッキーな冒険でもあったかのように描かれている。歴史の実相をみれば、日本敗戰後、「満洲」における支配——被支配の構造は逆転された。実際に、多くの「満洲」引き揚げ者にとって、「引き揚げ」體験は悲劇的であった。長野県の「満洲」への開拓團の「引き揚げ」狀況を例としてあげよう。敗戰に伴い、大混亂に陥った。冬になると気溫が氷點下になり、多くの老人や幼児が犧牲者になった。「引き揚げ」のプロセスの開始も遅れ、長期にわたった。逃避行の途中で、ソ連軍や現地住民に襲撃されたり、數百人の開拓團員が集團自決をして亡くなったりした場合もある。収容所へ入ってからも、厳冬期をむかえて発疹チフス等の病気が蔓延し、あるいは食料不足で、亡くなった例も多い。長野県內で郷裏に無事生還した人數は17698人であり、これは渡満者のうちのわずか52.5%であるという。死亡者(ソ連抑留中の死亡も含む)は14939(44.3%)、行方不明者220人、中國への殘留者884人となっている。
これらのデータは、阪部晶子の研究「「満洲」験の社會學——植民地の記憶のかたち」(世界思想社、2008年)に拠るものである。阪部晶子は「長野県満洲開拓史」に基づいて、長野県の満洲開拓團の引き揚げの狀況を概観している。「長野県満洲開拓史」(編·各團編·名簿編)長野県開拓自興會満洲開拓史刊行會、1984年。
長野県民に限らず、多くの験者にとって、帰國への最後の難関は引き揚げ船だったという。戰後、中國に殘留した女性たちや、肉親と離れた孤児たちもいて、「引き揚げ」の未帰還者としての彼らの験が知らされる。
「1Q84」のテクストにれば、「満洲」から引き揚げてきた父に対して、「満州」での験を父と共有する知人は、その共有する「満洲」験により信頼関係を持った上で、NHKの集金人の仕事を紹介することになる。事前に情報を知り、うまく「満洲」を脫出したのも、一般的な「満洲」験を逸脫した物語の設定である。一方で、「仲間のうちでその年のうちに無事に日本に帰り著けたのは彼一人だけだった」という敘述は、実際の悲劇的な「引き揚げ」狀況とほぼ一致する。したがって、天吾の父親には「先見の明」があったことになり、見事に「満洲」を脫出したストーリーは、特殊な例として作られたのである。一般開拓民の集合的記憶を逸脫したところもあることは明らかである。
2.3「満洲」體験の語り部
引き揚げの記憶の語り方は、それぞれ戰後へどう向き合っているかを示唆する。帰國後の父親にとって、「満洲」體験を語る相手は息子しかいない。天吾の父親は體験者としての語り部の役目を果たせず、記憶のシェアはスムーズに進んでいない。実際に戰後、一部の「満洲」體験者は村人に帰國報告をして、語り部の役目を負った。それでは、天吾の、父親の「體験」に対する反応は如何に描かれているだろうか。「いやというほど聞かされた」
BOOK1、p.171。
と語り手が敘述するように、天吾は、父親の「満洲」體験に対して、かなり受動的な姿勢を見せている。父親は人生の自慢話をするように、息子に體験を語ろうとする意は非常に強い。彼は「子守歌」や「童話」の代わりに、それを色彩に富む語り方で子供に語る。父親から「満洲」體験をり返し聞かされた果、子供世代の天吾は受動的に父親の人生の記憶を受けいだはずである。天吾が父から受けいだこのような「満洲」體験は、個別的な、口頭により生まれた記憶なので、ある種の「コミュニケーション的記憶」といえる。コミュニケーション的記憶は可変的であり、この記憶を體現している擔い手=次世代が交代すれば、その內容も移っていく。アライダ·アスマンは「何らかの共通の知識の基盤が失われてしまえば、異なる時代や世代間のコミュニケーションは途切れる」
アライダ·アスマン著、安川晴基「想起の空間——文化的記憶の形態と変遷」水聲社、2007年、p.25。
とコミュニケーション的記憶の危機を指摘している。天吾の父子間におけるコミュニケーションはさほどスムーズではないとは言え、隔たりある父子関係を通じた「記憶」の伝承が表象されている。
3. 「1Q84」における「記憶」の空白——中國側の「満洲」記憶
「1Q84」において、父親の「満洲」體験には、當然存在していたであろう植民地の住民が欠如している。歴史の実相をみれば、一部の開拓團の日常は中國人社會と斷絕していた場合もあるが、マジョリティーである中國の人びととの間に全く接點を持たずにいられることは不可能であったろう。つまり、父親の記憶と現実との間には齟齬がある。父親はそもそも當時中國人のことを意識していなかったのか、それとも無意識のうちにその部分を忘卻したのか、あるいはトラウマとして現地住民に関わる記憶を抑圧しているのか、はっきりとは描かれていない。テクストに語られていない空白の部分の存在は、想起された「満洲」と実際の「満洲」のずれを提示している。ここに、天吾の父親と、「トニー滝穀」での父親=滝穀省三郎という父親像との類似性が見られる。「そのようなわけで、日中戰爭から真珠灣攻撃、そして原爆投下へとの到る戰亂激動の時代を、彼は上海のナイトクラブで気楽にトロンボーンを吹いて過ごした。戰爭は彼とはまったく関係のないところで行われていた。要するに、滝穀省三郎は歴史に対する意誌とか省察とかいったようなものをまったくといっていいほど持ちあわせない人間だったのだ。」
「村上春樹全作品1979—1989 ⑧ 短編集Ⅲ」「トニー滝穀」講談社、1991年、pp.227229。
滝穀省三郎の人生と天吾の父親の人生に共通するのは、人生を貫く虛無感である。體験した場所はそれぞれ異なるが、戰時下の時代においては、かなりラッキーな験だと言える。天吾の父親は大連から汽車で「満蒙國境」の近くまで行った。そこに広大な草原やアルカリ土壌の土地が広がる「満洲」の自然狀況と、「満蒙開拓」という國家行為と合わせて、ちょうど「空虛」というイメージに相応しい。ところが、現代社會における暴力性を表現するための記號として扱われる「満洲」が、記號性を拒む性質を有することは無視できない。「1Q84」という物語においては、わざと「満洲」體験の空白が殘されていることを、より明らかにするために、ここで、試みに證言や小説などの中國側の「記憶」を取り上げて分析する。そうすると、「1Q84」で語られた「満洲」體験の特徴が一層明確に見えてくるであろう。
3.1中國人體験者の記憶
まず、中國人體験者の證言を例としていくつか取りあげる。植民地時代に使役された中國人労働者の具體的な生活や現実については、1949年以後の中國各地で作成された資料集や聞き取り調査の記録を通して接近できる。特に1980年代以後、各地で「文史資料」の編纂が進められていく。これらは當事者の記憶や回想に基づいた過去の歴史の記録集となっている。中國東北各地でも各県、市、省ごとに多な歴史の證言が収集され、記録が編集される。「満洲國」期にかんする證言もその大きな割合を占めている。彼らの生の體験を知るために、彼ら自身による語りが最も重要である。體験者·斉福清(男70歳)の證言を見よう。
訪問地點:樺川県中伏郷七星村
訪問日時:1992年9月12日
1939年に日本「開拓團」はやってきた。私たち農民は集賢県官部落に追い
払われて「県內開拓民」となり、荒地を開墾させられた。しかし、當時そこ
は水草の生い茂った放牧地で、全く開墾の仕がなく、多くの人が餓死した。
その後、わが家は七星にった。七星は日本「開拓團」の本部のあるところ
で、私たちはそこを「紅部」と呼んでいた。私は「開拓團」の土を借りて「開
拓團」の家に住み込んだ。私たちは「官工」(無償労働)に出て、日本人の
ために働かなければならなかった。日本の現場監督は非常に厳しく、ある時、
「開拓團」の外壁を築造した際、ちょっと早目に帰ろうとしたら、ひどく毆
られた。
孫武、梁玉多著「日本移民地調査訪問資料」、西田勝編、鄭敏·孫武編著「中國農民が證す「満洲開拓」の真相」小學館、2007年7月、p.119。
次に、大野郷開拓團にかんする記憶を例として挙げる。
【中國語原文】
重盤剝,大野鄉開拓團罪行累累
大野鄉開拓團的盤剝罪行:一是對內,團長等公事人員的生活與日民生活截然不同,團長身穿呢料,家有鍾麥,一日三餐菜肴豐富;而日民生活卻很艱苦,主食靠供給,副食靠園田的自種蔬菜。但日民的等級觀念很強,認為當官的穿得好,吃得好是天經地義的,從不攀比,表麵上也看不出有什麼抱怨情緒。二是對外,也就是對鄰近中國農民的盤剝,手段有兩種:一是高價租地,日本人坐收漁利。特別是沿河地帶,地勢低窪,既沒有防洪工程也沒有排澇設備,幾乎年年有洪澇之災,而定的高租也從不減稅,中國農民將所收成的糧食交租後,多數所剩無幾,過著吃糠咽菜,沿街乞討的生活。另一種是生產季節雇傭打零工的農民,特別是生產旺季,一天雇工達500餘人,團部將雇工分到各日民戶後,由日民分配活計,規定數量,監督質量。雇工們按勞動數量多少由日本農戶發給勞動工票,由雇工本人到大野鄉團部領取工錢。雇工們勞動強度大,時間長,但工價低得可憐,男壯勞動力一天隻能賺5角,女工隻能賺3角錢。當地流傳著這樣一首民謠:“大野鄉,地壟長,日不落,汗水淌,紮破腳上鞋,摟斷破鋤扛,賺來三五角,回家哄兒郎”。盡管這樣,日本人的錢也是很難賺到手的。日民們對雇工監督很嚴,時常因質量不好,遭到日本人“巴嘎呀路”(混蛋)的罵斥和扣工錢。雇工們每逢遇到這種情況,知道和日本講不出道理,隻好回村找當時做郵差的陸家村民劉景新祈求。由於劉景新經常給大野鄉開拓團團長及公事人員送信和郵包,時間長了,有些私人感情,靠這種關係打通關節,村民們才可以把工錢拿到手。(摘自《盤錦文史資料》第三輯)
【文】
ひどい搾取、大野郷開拓團の罪多し
大野郷開拓團の搾取の罪:その一、內に対しては、團長や公の人の生活は、
團員とは完全に異なる。團長はウールの服で、時計を持ち、一日三度の食事
は豊富であった。それに対して、日本人團員の生活は難しくて、主食は配
に頼り、副食は自ら栽培した野菜であった。ところが、團員は階級意識が強
くて、官僚がいい生活をするのは當たり前なことだと思っている。互いに張
り合わないし、表には不満も見えない。その二は外に対する場合だ。つまり
近所の中國人農民への搾取のことだ。その手段は二つあった:高い値段で土
地を賃借することで、日本人は漁夫の利を得た。特に、河沿いの地帯は、地
勢が低くて、水防のプロジェクトや排水の設備もない。毎年水害に襲われ、
高い小作料に加え、減稅をしたこともない。農民たちは、収穫した食料を小
作料として支払うと、殘りは少なく、貧困な生活をし、路頭で物乞いをする。
もう一つは、生産季節にアルバイトを雇うことだ。一日に500人を雇い、開
拓團は雇い人を割當て、日本人團員が指示を出し、數量を決め、品質を監視
する。雇い人は労働の量に基づき、日本人農家から労働票を受け取る。その
雇い人はまた大野郷本部で料をもらう。雇い人は仕事がハードで、労働時
間も長いが、料はきわめて少ない。大人の男性は一日5角、女性が3角し
か稼げない。當地には次のような民謡が流行した:「大野郷、耕地も長く、
日の入りも來ない、汗を流し、靴が突き破られ、壊れた鍬を擔いながら、三、
五角を稼いで、息子をあやす」。にもかかわらず、日本人からお金を稼ぐの
は難しい。雇い人は日本人團員に厳しく監視され、品質がよくないという理
由で、時々「馬鹿野郎」と怒鳴られたり、賃金を減らされたりする。雇い人
は、毎回この場合だったら、日本人と理論しても意味ないと思って、村にっ
て、郵便員を勤める陸村の劉景新に訴える他ない。劉景新はよく大野開拓團
と公の人に郵便配達をしており、時が長くなると、個人的な関係ができ、こ
の人脈で意思疎通ができ、やっと賃金が村民の手に入ったのだ。(「盤錦文史
資料」第三集より)孫邦、於海鷹、李少伯編「偽滿史料叢書經濟掠奪」吉林人民出版社、pp.769771。(文は馮)
大野郷開拓團についての記録は、聞き取り調査に基づいて整理されたものである。當地の農民たちの土地は「買収」という名義で略奪され、さらに中國人労働者はひどく搾取された。この場合、植民地における支配側と被支配側の日常は深く関連している。次に強製労働に連行された證言を例として取り上げる。
【原文】當勞工的苦難經曆
李青山口述王傑整理
悲慘的遭遇
我們被押送的地方叫做老黑溝,位於黑龍江省黑山縣境內。地處山區,山高林密,古木參天,是人跡罕至之處。把我們抓到這個地方,就是給鬼子修築地下倉庫,整天挖山洞、砸石頭、背石頭、挑石頭、砌石頭,一天要幹十七八個小時。早出工披著星光,晚歸來帶著月亮,吃不飽,睡不好,累得筋骨斷,瘦得骨如材。幹活時再累也不敢直腰,誰要直腰被鬼子監工看見,就得狠狠地砸你一木劍(木頭做的劍形木棍)。勞工如牛馬,經常挨打受罵,打死一個勞工如同打死一隻小雞。我親眼看見,有一個勞工活活被日本監工給打死,扔到了萬人坑裏。當時我們編了一個順口溜:
老黑溝陰森森,
周圍全是山,
當中一線天,
勞工受盡牛馬罪,
吃不飽來穿不暖;
鬼子好比閻王,
萬人坑裏把人填。孫邦、於海鷹、李少伯編「偽滿史料叢書偽滿社會」吉林人民出版社、pp.56。
【文】
労工としての苦難的歴
李青山口述、王傑整理
悲慘な遭遇
私たちは黒竜江省黒山県內にある老黒溝というところに護送された。山地
で、山も高いし、森も茂っている。古木は天に屆いているかのようである。
人びとの姿は希にしか見られない。日本人のために地下倉庫をつくるために、
こんなところに連行されたのだ。日、洞窟を掘ったり、石を砕いたり、背
負ったり、擔いだり、積み上げたりして、17、18時間もかける。星がまだ見
える朝にやり始め、月が見えるほど遅い時間に帰る。よく食えなかったし、
睡眠も十分取れなかった。骨が折れたように疲れて、柴のように痩せてしまっ
た。それにしても、いくら疲れたと感じても、腰を伸ばすことができなかっ
た。管理人に見られたら、容赦なく木刀(木で作った剣のかたちの棒)で打
たれる果になる。労工は牛、馬のように、ややすると毆られて、怒鳴られ
ていた。一人の労働者を殺すのは、小鳥を殺すと同じように簡単だった。私
は自ら、一人の労働者が毆られて殺された後、萬人坑に投げ捨てられたことも見たことがある。當時、私たちは韻文を作った:
老黒溝は陰鬱で、
周りは山々、
真ん中に一しか殘らない光景、
牛と馬のように操られ、
食べ物も衣裝も足りない;
日本人は閻魔みたい、
萬人坑に人間を埋めた(文は馮)
以上の被害者側の験談と證言からわかるように、「満洲國」という半植民地社會における支配——被支配の権力構造は植民地社會の日常を規定している。中國人労働者の生活は食事が中心であり、済製下での過酷な配製度により、労働者の生活は貧困化してゆき、その不満から「満洲國」に対して労働者たちが非組織的に抵抗活動を行っていた子が明らかに表現されている。植民した側の人びとにとっての日常世界と、植民された側にとっての日常世界とは、地域によって分斷されている場合もあるが、搾取と略奪に基づく植民支配は、完全に中國の人びとの存在を排除することはできない。植民地における支配——被支配関係の権力性は、支配された側の労働者の日常生活を淩駕する。支配された彼らはその不合理性や抑圧に耐えざるを得ない。口承で殘された「韻文」は労働者たちの辛酸と怒りが凝縮されたものであり、これも體験者たちが共有する集合的記憶なのである。
3.2小説「偽滿洲國」における抵抗と被害の記憶
次に、中國文學「偽滿洲國」に描かれた被害と抵抗の記憶を例と取り上げる。「偽滿洲國」での、父子関係ではない吉來と、學校の先生である王亭業の間の會話は、次のように展開されている。
【中國語原文】
王亭業見往來行人都把目光集中到那對母子身上,就對吉來說:“你不上學校也好,你不用學日本話了。”
“我們先生說了,中國人要說中國話,不學日本話。”吉來的話剛一出口,王亭業就把脖子左右扭了扭,四顧無人後,他說:“你說話的聲音太大了,這樣不好。以後在街上說話要小點聲。別告訴別人我剛才跟你說的那些話。”王亭業提著藥搖搖晃晃地離開了。他離吉來遠了的時候,就不再背著手走路,那摞草藥又回到前麵去了。吉來憋不住想笑。他想雖然街上的日本人越來越多了,他不和他們打交道就是。遲子建「偽滿洲國」人民文學出版社、2005年、p.3。
【文】
周囲の目がその母親と子どもに向けられるのを見計らって、王亭業は吉來に言った。「學校に行かなくてもいい。日本語を習わなくて済むからね」
「塾の先生が言ったよ。中國人は中國語を喋らなくちゃ、日本語を習わな
いって」と吉來が言った途端、王亭業は吉來に念を押してから、周りを見回
した。「大聲をだしちゃだめ。これから外で喋る時は、聲を抑えて話さない
とだめだよ。それから、私が言ったことも、他人には喋るんじゃないぞ」
そして、王亭業はゆっくりと歩き出した。吉來から遠くなったら、彼の手
は前にり、漢方薬の包みも元通りにぶら下がった。吉來はその姿を見て、
笑いたかった。「この街に日本人が増えたけど、付き合わなければ済むこと
さ」と思った。(文は馮)
ここでは當時の中國における一般人の密かな抵抗が描かれている。半植民地下での中華ナショナリズムの描寫である。王亭業は抵抗する意識を抱えながら、迫害されることをも恐れていて、大きな聲を出さない。ここでは、植民地社會の支配——被支配の構造の中に置かれている生活の日常の部が生々しく描き出されている。王亭業は一人の悲劇的な主人公で、當時「満洲國」に生きる知識人の典型的な人物像である。彼の最的な行き場は731部隊になる。「偽滿洲國」では、平頂山事件や731部隊の人體実験のような殘忍な歴史上の事件も描かれている。「偽滿洲國」という小説は、「跋一」(日本語「後書き一」)
「跋一」同書、2005年、pp.705706。で記されているように、遅子建が7年間をかけて図書館や古本屋で歴史資料を収集し、研究した上で執筆した小説である。被植民社會での集合的記憶の変遷の一端が「偽滿洲國」に見られる。「満洲國」における被植民者である中國の験についても、植民地社會における暴力的構造によって規定された圧倒的な被害者像として描かれることがほとんどであった。民衆の視點から、日常の些な生活の描寫で大きな歴史を表現しようとするこの作品は、植民期以後の中國東北社會において「満洲國」にかんする集合的記憶が維持され、変化していくことをも意味する。「1Q84」での父親の「満洲」體験には、加害の記憶が完全に欠落しているように設定され、しかも部がなく、骨としての大きな歴史事件しか述べられていない。
以上のように作品內外における「記憶」の比較を通して、「1Q84」における父親の「満洲」験には大きな空白が施されていることが、さらに明確になってくる。日本人による回想録や歴史の記述のなかには見出しがたい具體性、狀況の詳さは中國人當事者の證言に見られる。勿論、小説としての「1Q84」での父親像は批判的に描かれており、歴史を還元しようとする作品でもないし、作者自身には、未體験者世代、しかも加害者側の後世として、歴史の具體性と詳さを備えた「満洲」記憶を作品に織り込むことはそもそも難しいであろう。
4. 父子間におけるコミュニケーションの斷絕と「和解」
「1Q84」においては、これまで村上春樹の作品のなかではあまり詳しく描かれることのなかった「父」が前麵に登場し、そのほかにも何組かの親子関係が設定されている。設けられた関係性は作品の解釈に大きな示唆を與えるものだと思われる。その中で、最も重點的に描かれているのは天吾と父の関係である。天吾がゴーストライターとして「空気さなぎ」を書き直した立場、すなわち「1984」年から「1Q84」への切り替えに參與した重要な役割のほかに、彼に仮された問題は父子関係にある。天吾の母は彼が子供のときから不在だった。父子家庭で天吾は、日曜日ごとに、父にNHKの集金に連れて行かれるたび、執拗に満蒙開拓について聞かされる。このような形で、前世代から次世代への記憶の伝承という問題が浮上してくる。
4.1トラウマとしての日曜日と抑圧される記憶
子世代の天吾と父親との関係は、スムーズに進むわけではない。天吾にとってNHKの集金に連れて行かれる日曜日はトラウマとして刻まれている。毎週日曜日に父とともに集金ルートを回らされるため、級友たちのように遊べず、クラスで「NHK」とあだ名される「異人種」にならざるを得なかったこともある。小學校5年生の時、ついにそれを拒絕し、父親からの自立を宣告した。しかしながら、大人になった今でも「日曜日が現実の脅威ではなくなった今でも、日曜日の朝に目を覚まし、わけもなく暗い気持ちになることがある。身體の節々に軋みを感じ、吐き気を覚えることもある。そういう反応が心に染みついてしまっているのだ。おそらく深い無意識の領域まで」という。考えてみれば、天吾の心身における反応は、トラウマとして記憶された體験の長期にわたる影響として出現する混亂である。いわゆるPTSD(心的外傷後ストレス障害)症狀である。このPTSDはり返しテクスト中で強調されている。天吾はテレビ·アンテナを見かけても、つらい思い出が呼び起こされるようになる。
二人並んで車窓の外を眺めていた。のっぺりとした平板な土地に、これと
いう特徴のない建物が、どこまでも際限なく立ち並んでいる。無數のテレビ·
アンテナが、蟲の觸角のように空に向けて突き出している。そこに暮らす人々はNHKの受信料をちゃんと払っているのだろうか。日曜日には天吾は何かにつけて受信料のことを考えてしまう。そんなこと考えたくなんかないのだが、考えないわけにはいかない。BOOK1、p.180。
以上のように現れる天吾の症狀についてさらに考えてみよう。児童期のトラウマは心理上の変化をもたらし、青年期になってから種々の心身両麵での障害として現出する。では、父親の「満洲」體験と天吾のトラウマ的なNHK集金活動には、いかなる関連性が存在するのだろうか。子供は実際に自ら災難を體験しなくとも、親の口述により、つらい験を認識し、內麵化していく。天吾の場合は、父親の「満洲」體験に抵抗しており、父親の「満洲」體験を想起するためには何らかの刺激が必要となる。トラウマである集金活動は「満洲」體験を想起する媒介として機能する。天吾が恐怖の「日曜日」の「記憶」を「想起」すると、父親のことを思い出してしまい、それに連動して植民地「満洲」の〈記憶〉も呼び起こしてしまう。その記憶は世代交代とともに、変容していく。フロイトの精神分析によれば、自分の記憶の一部が耐え難く、健全な生活を極端に妨げる場合、反射的に記憶を意識下から排除することにより障害を回避する反応を「抑圧」と呼ぶ。C.S.ホール著、西川好夫「フロイト心理學入門」清水弘文堂、1987年、pp.132138。明らかに天吾にとって「日曜日の記憶」はあまりにも辛いものなので、彼は反射的にそれを意識下から排除しようとしている。「満洲の記憶」は「日曜日」と直しており、無意識下に封印され、抑圧される。したがって、トラウマとして通底する「記憶」は、想起の空間=「満州」から、想起の時間=「日曜日」に移行したといえる。さらに、この記憶を所有している擔い手が交代すれば、その內容もまた変容するであろう。こうして戰爭や植民地の「記憶」の承に伴うアイデンティティーの変化が提示されている。
同時に、「1Q84」に描かれた父子関係は、いささか作者自身の個人體験を反映しているとも考えられる。2009年エルサレム賞の授賞式スピーチで、村上春樹は唐突に、前年90歳で亡くなった父親の思い出を語っている。
父は元教師で、時折、僧侶をしていました。京都の大學院生だったとき、
徴兵され、中國の戰場に送られました。戰後に生まれた私は、父が朝食前に
毎日、長く深いおを上げているのを見るのが日常でした。ある時、私は父
になぜそういったことをするのかを尋ねました。父の答えは、戰場に散った
人たちのために祈っているとのことでした。父は、敵であろうが味方であろ
うが區別なく、「すべて」の戰死者のために祈っているとのことでした。父
が仏壇の前で正座している後ろ姿を見たとき、父の周りに死の影を感じたよ
うな気がしました。
村上春樹「壁と卵」、大胡田若葉、早川誓子編集·翻協力「心をゆさぶる平和へのメッセージ——なぜ、村上春樹はエルサレム賞を受賞したか」、2009年、pp.5053。
戰爭の記憶について「死の影を感じた」と語ったように、父の戰爭體験を引ぐことは、村上の內麵にもある種のトラウマを形成させたことを意味する。彼の創作は戰爭や植民地の記憶の影に大きな影響を與えられた。したがって、天吾と父の関係と作家自身における父子関係とは無ではない。世代間の記憶のの問題が強く意識されながら、天吾と父親の父子関係が描き出されたのであろう。
4.2「貓の町」という挿話
BOOK2第8章には、「貓の町」という挿話が描かれる。千葉の療養所へ向かう列車の中で天吾は、旅をテーマとした短編小説のアンソロジーをむ。そしてその中の「貓の町」という短編を、彼は二度、り返しむこととなる。
「貓の町」は「空気さなぎ」やチェーホフの「サハリン島」と同じく、作品へのテクスト引用のかたちで示される。名前も知らないドイツ人作家によって書かれたとされる「貓の町」は、両世界大戰の間に書かれたものだと解説されている。一人の青年が列車に乗って気ままな旅をしている。途中ある町の無人駅に惹かれて降りると、そこは人間の姿が全く見えない貓があふれる町であった。青年は好奇心から勝手に町のホテルに泊まる。三日目に人間の匂いに気付いた貓が、グループを組んで、自警團のように捜査を始める。青年は町を脫出しようとするが、列車はスピードを落とさず通過し、停まらなかった。局、帰還することがかなわない彼は、元いた社會から自分が失われていることを悟った。そこは貓の町などではなく、彼が失われるため、彼のために用意された、現世から隔絕した場所だったのである。
このエピソード「貓の町」は、萩原朔太郎の「散文詩風な小説」と副題された「貓町」を想起させる。「貓町」は1935年8月「セルパン」第54號に発表された朔太郎後期の短編であり、詩人にふさわしく幻想的な作風となっている。「私」は精神的疲労感から麻薬に溺れる人物である。そのような「私」が旅先の溫泉場で、犬のように肉ばかり食べる人々が集まった部落や、貓のように魚ばかり食べる住民の集まる部落の伝説を耳にする。そして「私」は、本當に貓ばかりの町に迷い込んでしまう。見慣れた普通の町が、突然見知らぬ町に変貌する。「私」の恐怖が頂點に達したとき意識が回復し、貓の姿が消えるという作品である。